| 「7」J・ブリスコ対J・鶴田戦
昭和51年8月28日 東京・日大講堂。ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級選手権王座決定戦60分3本勝負。
1. 鶴田(体固め、11分10秒)
2. J・ブリスコ(足四の字固め、6分19秒)
3. 鶴田(首固め、5分34秒)勝ち。
復活したタイトルを争ったのは私と前NWA世界王者J・ブリスコだった。私は、それまでNWA世界王者に三度挑戦して3連敗であった。1本目フロント・スープレックス、2本目足四の字固め、3本目首固め。何と言っても初のシングル王座獲得だから嬉しかった。J・ブリスコはオクラホマ州立大学時代は元アマレス全米王者だからやりやすかった。見た目には地味だけど、やっている私にはずっしり手応えがあった。1つの壁を突き破った私は、自信からくるプロの風格が、身につき始めたように思う。それまでは、まだ学生臭さが多少は残っていた私に、プロの世界でやっていく自信が備わってきた。外人レスラーの私を見る目が、ベルトを締めたことによってガラリと変わってきた。ノン・タイトル戦でも王者を倒せば、彼らの実績になる。私は、負けることが許されなくなってきた「鶴田時代」の幕開けとなった。
またこの年は、外人レスラーばかりでなく、日本人にもライバルが出現した。韓国選手のキム・ドクと天龍源一郎の入団である。昭和51年10月には大木金太郎とキム・ドクはインター・タッグ選手権を奪取、私は、始めて王座転落の悲劇を味わった。私のことを「箱入りチャンピオン」と罵り続けた執念に負けた、と言ってもいい試合であった。また、天龍も同じエリート・コースを歩き始め、内部でも私は、追われる立場になった。真のエースとしてのプライドと実力を兼ね備えるプロレスラーになるように心に誓った。この時代は初のシングル王者になり緊張と不安とプライドが交差する不安定な精神状態にあったと記憶している。そこで明日に向かって大きく成長するための試練と自分に言い聞かせた。
「8」マスカラス対J・鶴田戦
昭和52年8月25日 東京・田園コロシアム。UNヘビー級選手権試合60分3本勝負。
1. マスカラス(変形波乗り固め、22分48秒)
2. 鶴田(エビ固め、7分46秒)
3. 鶴田(リングアウト、3分20秒) 鶴田3度目の王座防衛。
当時、人気がピークにあったマラスカス戦で話題性ではナンバー1のドリーム・カードであった。私は燃えに燃え、派手な応援合戦の中、大技の応酬が繰り広げられたが3本目スイシーダーの失敗で私が勝ったが、ファンをフィーバーさせた「真夏の試合」であった。この試合は東京スポーツで年間最高試合に選ばれた。私としては、実力差を見せ付けた「夢の決戦」であったと思う。ファン・クラブ「エル・アミーゴ」に肩車されたマスカラスが「スカイ・ハイ」のメロディに乗って登場すれば、私もファン・クラブの声援をバックにテーマ曲の「チャイニーズ・カンフー」に乗って登場し新しいプロレスの夜明けを感じさせるに十分な華やかなセレモニーであった。「空中戦になるのは必至」と言われたファン、関係者の予想通
り、試合はスピーディな後展開となった。1本目はマラスカスがメキシコ特有の変形波乗り固めで22分48秒先取した。2本目に入り私もダイナミックなジャイアント・スイングでマラスカスのスタミナをロスさせてから、とどめはロープ最上段からのジャンボ・ミサイル・キックで取った。3本目は挑戦者のマラスカスは最後のチャンスを空中殺法の3段攻撃に賭けた。フライング・クロス・アタックで弱らせ、ドロップ・キックの2連発で場外に叩き落とし、とどめはコーナー・ポスト最上段からの殺人プランチャを決めて、これで完全に勝負は決まったかに見えた。だが勝負は最後の最後までわからないものである。殺人プランチャを決めた瞬間、不覚にもマラスカスは雨で濡れていた鉄柱で足を滑らせ、このため目標を失ったマラスカスは私の身体をかすめてリングサイドの椅子の間に激突、右足をパイプの部分に挟まれて身動きできない間に、私がリングに戻り、辛くもリングアウト勝ちを飾った。スーオアー・ヒーローのマラスカスは負けはしたが、いさぎよい試合振りが見る者にさわやかな感動を与えたと思う。この試合から強い弱いの「実力勝負の世界」とスーハ
゚ー・ヒーロー同士の試合で話題性ナンバー1の「ドリーム・カード」が在ることがわかった。しかしどちらもプロレスであり、興行面
では大成功であった。プロレスでは技術面(実力勝負の世界)と芸術面(観客を魅了する世界)であり、この2つの価値のバランスの取り方が崩れるとプロレスが世間に偏見を持って見られる。こうならないようにするにはもう一度観客とレスラーの両方にレスリングの見方や教育が必要である。それが出来ないとプロレスは永久に世間の偏見を取り除くことは困難である。
「9」J・鶴田対D・スレーター戦
昭和55年5月1日 福岡・九電記念体育館。第8回チャンピオン・カーニバル優勝決定戦60分1本勝負。
1.「23分25秒原爆固め」で鶴田の勝ち。
C.カーニバル優勝は私が「真のエース」としての地位を築くために、絶対にやり遂げなければならない条件であった。この初優勝は感激した。第2回大会初出場以来の優勝で、私が目に見えない努力、成長した結果
であると思う。決勝戦のD・スレーター戦は全日本プロ年間最高の名勝負だった。返し技でなく、完全に相手をフォールしたので私はこの試合で満足したと同時に、ますます観客は強さのある内容のある試合を求めて来ると思った。コーチ学的にはテクニックあり、ラフ・ファイトありの総合的な力を要求された。自分と同年代なのでライバル関係にあり次のプロレス界を背負って行かなければならず、その後何回も対戦したが、彼はだんだん落ちていった。それは彼の生活態度にあったと思う。今は過去の栄光を背にして細々とレスラーをやっていると聞く。ただ強いだけでなく,何か人間の教養を併せ持つレスラーでないと自己の人生設計を何か誤ってしまうような気がした。
「10」J・鶴田対A・ザ・ブッチャー戦
昭和56年1月22日山梨県韮崎市体育館。UN選手権試合60分3本勝負。
1.(両者リングアウト、7分47秒)
2.鶴田(体固め、3分33秒)
UN王者として3度もベルトを手放しているが、海外まで追ったこともある。A・ザ・ブッチャーとの攻防劇であったため、この試合が最も辛かった。悩んで、苦しみ、そして成長するんだと心に誓った。A・ザ・ブッチャーともロビンソンと同じくらい戦っているが、なかなかピン・フォールが取れなかった。この時の1勝は大きい。しかも故郷での試合だっからなおさらである。この時代はA・ザ・ブッチャーとロビンソンが外人のエースだったのでこの二人に勝つことが自分を高め、ファンに納得させる有効な方法だったと思う。コーチ学的には技という技はなく殴る、蹴るだけの単純な試合だが、その喧嘩的ファイトが一番観客を興奮させた。なにかプロレスの原点に戻ったような感じがした。力道山が言っていたように「プロレスは喧嘩だ」、リングに上がれば先輩も後輩もない実力で全て決まる、と言う言葉を思い出した。
30歳になり、キャリアの浅い私に、次々と世界のトップランクの強豪との戦いのチャンスを与えてもらった。徹底的に世界の強豪が私を痛めつけることによって、私に身体で体験させて世界ランクのプロレスリングテクニックとガッツを覚え込ませるということであった。「試練の十番勝負」第1戦でV・ガニアに子供扱いされた私は第10戦のV・F・エリックを撃破するまでに成長した。B・バックランド、S・ハンセン、鶴田の3人は同期の桜である。プロレスファンに「強いと思うレスラー順に並べて見よ」と言うと、ハンセン、バックランド、鶴田の順に並べる。それはなぜか。肉体的条件は私が申し分ないものを持っているが、バックランドの鍛え抜かれた筋肉とパワー、そして不屈のガッツと言う練習至上主義に見られる厳しさ、たくましさが私にはない。またハンセンの戦車のような凄まじいタフさ、馬力が私にはない。ハンセン対バックランドの日本武道館で見せたあのものすごいヘビー級レスリングのド迫力は現在のわたしの入り込めないものであった。私のファイトは巨体が空間をフルに利用した華麗なるもので、見るものをしびれさせるが、ド迫力に欠ける。優美であり華麗であるが、私のファイトは女性的な美しさ、華麗さである。一方バックランド、ハンセンは男性的で強さの自分自身への挑戦である。私の肉体も、たくましさ増してきて、全日本プロレスの選手の中では練習量
は多いが、バックランドに比べれば少ない。私の原型はアマレスであり、私は華麗さよりも堅実な強さ、力強いたくましさ、強さを志向すべきだと思っていた。アントニオ・猪木とJ・鶴田は体格も違う。しかし、いま猪木と鶴田が戦えば猪木の激しい喧嘩ファイトにペースを乱され、グランドで関節技で痛めつけられ勝てないだろう。バックランドも同じであろう。またハンセンなら私の巨体はウエスタン・ラリアートの格好の標的だろう。私が徹底的にトレーニングに打ち込み、その肉体と精神構造を改造すれば、文句なしに世界のトップランクに「実力」でのし上がれる素質を持っていることは間違いない。入門した時からエリートコースののって、ビッグタイトルのチャンスを与えられた私には、ハングリー精神に欠ける。これはG・馬場の育て方の問題であり、甘いのである。私のビッグファイトを振り返って見ると、「今一歩」で勝てない引き分けの試合が圧倒的に多い。せっかく「NWA世界王座」への至近距離にいるのに。T・デビアス、リック・フレアー、D・F・エリックといった有力派閥の上にのって「次期NWA世界チャンピオン」の呼び声の高いレスラーがいるが、彼らと比較すれば私の力は上である。私はバックランド、ハンセンを「仮想敵」とし、華麗さと力強さ、などの実力を合わせ持った鉄人ルー・テーズを目指すべきであると思う。
私に対して「東京スポーツ」の記者が辛口の評価を言っていたのを思い出した。「内容のある勝つか、負けるかという真剣勝負のような試合」と「非常に名人芸、職人芸の演技としてのプロレスの世界」の2つが私の心の中にぼんやりと生まれていた。
またプロレスは、純粋な格闘技の側面とエンターティメントの部分に明確な線引きが出来ない。このため学術的にはスポーツとは見なされない。しかしシンクロ・スイミングや新体操に芸術点があるように、試合の流れや技などプロセスの美術性を楽しむ考え方もある。
「11」J・鶴田対天龍源一郎戦(身長189cm、体重125kg)
平成元年6月5日。日本武道館で三冠統一ヘビー級選手権60分1本勝負。
1、 天龍(エビ固め、24分5秒)鶴田。天龍2代王者になる。
昭和63年4月15日の大阪における天龍とB・ブロディの闘いからスタートした三冠統一ヘビー級選手権は、それから1年後の平成2年4月18日の東京の大田区体育館で私とハンセンの闘いでようやく三冠統一を果
たした。私が輝ける初代王者となった。私が長期政権を確立するかに見えたが、6月5日の武道館で思わぬ
落とし穴が待っていた。試合内容はゴングと同時に私がジャンピング・ニーを打ち、相手がジャーマン・スープレックスで切り返すという意外な展開からスタートした。だが私が試合の主導権は握っていた。天龍の痛めている首を狙って再三、パワーボムを仕掛けたが、天龍はこれをリバースで返し、10分過ぎ私が猛然とラッシュし、ラリアート、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ、ブルドッキング・ヘッドロックを出したが、天龍はカウント2で必死で返した。私はさらにフライング・ボディシザースからバックドロップの連続攻撃をかけた。天龍はこの攻撃から耐え延髄蹴りからパワーボムの2連発で私が負けた。試合後に「このベルトは東京ドーム(新日プロレスが初進出)より重い」と、力強く言ったのが印象的であった。コーチ学的には心・技・体の心の部分で私は年齢的にも同じの日本人二人が、一つの団体にいることの難しさを何となく感じた。どうしても観客やプロレス記者などマスコミは、どちらが強いかで(観客を扇動する)見てしまう。そしてどちらか一方が、団体に不満を持ち外に出て自分の団体を作る。格闘技は強い者を求めて自己の限界に挑戦するスポーツだから、自分が一番にならないと存在価値が無い面
がある。プロレス界はこの歴史の繰り返しで僚友並び立たずである。この試合でだんだんそうなるだろうと言う予感はあったが、一年後私の予想は的中した。
「12」J・鶴田対三沢光晴戦
平成2年6月8日。日本武道館で60分1本勝負。
1. 三沢光晴(片エビ固め、24分6秒)鶴田。
鶴田(身長196cm、体重127kg)を破り、新生・三沢光晴(身長185cm、体重110kg)を強烈にアピールした1戦だった。この年4月天龍が全日本プロレスを離脱した直後のシリーズ開幕戦で、5月14日の東京都体育館で彼は6年間なじんだタイガーマスクの覆面
を脱ぎ捨て、素顔に戻って私に喧嘩を挑んできた。新生・三沢光晴の元には川田利明、小橋健太らが集まって超世代軍を結成した。天龍を追って谷津喜章以下脱退選手が続出する中で、私をエースとする正規軍と超世代軍の抗争は、全日本プロレスリングのリングの焦点となっていた。そしてついに頂上対決をこの日迎えたのである。この日のセミファイナルでは三冠統一ヘビー級選手権でハンセンが王者テリー・ゴディを倒して三冠統一王者になった。私と三沢戦は三冠統一ヘビー級選手権を抑えてメインイベントに起用された。全日本プロレスの将来を占う意味で、この1戦がいかに重要視されていたかが判るし、ファンもそれを当然知っていた。この武道館の目玉
は三冠統一ヘビー級選手権でなく、私と三沢のノンタイトル戦であった。超満員の観衆から三沢コールが巻き起こり、緊張した表情で三沢が登場した。続いて私が登場したが、私には「胸を貸す」気持ちで余裕がありこの対決に挑んだ。試合内容は静かなにらみ合いの後に私が握手を求めると三沢は背中を向けて拒否した。ここでゴングが鳴り、スタートから三沢はラッシュし、私のバックドロップを返しスライディング・キックで場外に出して、エプロンからドロップキック。さらに強烈なエルボー・ドロップで私をフェンス外に出して、何とかカンバックを狙う私にプランチャで襲いかかってきた。いかにも三沢らしい速攻だった。しかしこれが私に、火をつけ凄まじい反撃に出た。鋭角的なジャンピング・ニー、顔面
直撃のカウンター・キック、ドロップ・キック、スープレックス、パワー・ボム、拷問コブラツイストと、破壊力満点の技を繰り出していく。何度か大の字になりダウンし、防戦一方になる三沢に「三沢どうした」と言う野次も聞こえたが、必死で向かってくる三沢を、三沢コールが応援する。三沢はスピンキック、ダイビング・ボディプレスで反撃したが、私にキャッチされ、ロープに喉をぶつけて後が続かない。勝利を確信した私はピン・フォールを狙ってボディシザーズ、ドロップキック、セカンドロープからのダイビング・ニー、パワー・ボム、さらにラリアートの連打とたたみかける。三沢は私のブレーンバスターをかわし、バックドロップを打ってきたが、私は余裕で身体を浴びせ、三沢を押し潰しフォールを狙う。しかし三沢は身体を一転して、私をビン・フォールした。場内は三沢コールの大合唱で三沢は肩車されて、両手を高々と突き上げた。三沢がレスラー9年目にして私を超えた歓喜の瞬間であった。総立ちとなった大観衆は、帰ろうとせずに三沢に祝福の拍手を贈り続けた。試合後三沢は意外なほど冷静に、「自分でもびっくりです。もう意地しかなかった。今日負けたら、ただの三沢に戻ってしまう。それが凄く悔しかったから頑張った。しかし返し技では、100%勝ったことにはならない。」と語り、私は「これで俺を制覇したと思ったら、まだまだ甘い。三沢にはもっと大きくなってほしい。」と淡々と語ったことを覚えている。三沢は東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」殊勲賞を受賞した。私はこの試合で自分の置かれている立場が今後どう変化していくか。11歳年下の挑戦者三沢を、思いながら薄々感じていた。自分の絶頂期が終わりに近づいていること、これから40歳を過ぎ体力の限界を感じながら、このまま第1線を引いてからもプロレスラーを続けるべきか、または新たな道に自分の人生をチャレンジしようかと、心の中で人生設計を考えるようになっていた。2年後思いもかけない病気になり、いろいろ悩み、苦しみながら考えて「自分自身」を見つけるために筑波大学大学院に入学し、現在に至るが、これからはレスラーとコーチ役と大学の講師の3本の柱をバランスよく取り、プロレス界、大きく言えばスポーツ界のために貢献したいと思っている。
演技力の境目というのはどう言うことなのか。本当の試合の勝負から来るプレイの
能力と観客の期待感が切れないようにするにはどうすればよいのか。これはオーバーな演技力を抑え、きちんと線の引かれたここまではと言うプレイでなければならない。
そうしないと、たんなる見世物に怠溌してしまう。プロレスの世界はそうではなくて手前の所できちんとした名勝負として、みんなに評価してもらえるものでなければならない。この問題に対しては、力道山対デストロイヤー、力道山対ルー・テーズのプレイ内容のある試合が参考になる。力道山対ブラッシー、力道山対グレート・アントニオの試合のように非常に名人芸、職人芸の演技としてのプロレスの試合もある。観客は満足してプロレスを堪能する。人間はだんだん楽な方に流されやすいが、私は観客を真剣勝負の方に引き戻したい。選手生活で難しいことは毎日の試合と時間とのバランスが取れずシリーズを終えてしまうことである。私はそのことを非常に反省している。ボクシングは何ヶ月に1回、世界戦があり、その後は充分時間的ゆおりがある。またミル・マスカラス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ドリー・ファンク、テリー・ファンク、ビル・ロビンソンなどと闘って、私の心の中に二つの価値基準が生まれた。勝つか負けるかと言う真剣勝負のような試合(内容のある試合)例えばテーズ、ビル・ロビンソン選手との試合と、非常に名人芸、職人芸の演技としてのプロレスの世界がある(見てファンが納得してくれる内容)例えばミル・マスカラス選手、リック・フレアー選手、猪木対アリ戦、猪木対ルスカ戦がある。世界一強い男はだれだろうと言うような、書き方を記者がすることがある。またプロレスか、ボクシングか、柔道かどれが1番強いのか。これは観客に興味を抱かせチケットを買うことを期待している。そしてそのような試合を組むことである。例えば違う種目のスポーツ選手と試合をする時にはルールの違いが壁になる。なぜ、空手か、柔道が強いかで試合をしないのか。私は柔道対レスリング戦は興行で、習慣化すべきことではないと思う。
名勝負は初対決に多い。私も相手も、観客も噂では実力を聞いているが、実際にどのくらいあるのか。私との実力の差はどのくらいなのか、価値判断が、判りにくい所にあり、3者ともそのメジャーを持っていない。また初対決なので、両者とも緊張している。その緊張感に観客はしびれる。2番、3番目の試合が名勝負として残らないのは、私も、相手の演技力の世界に慣れてくるからである。また逆に演技力の世界ではなく、得意技が決まってしまうからなのか。新鮮味がなくなってしまう。私も、相手も観客(オーディエンス)も、同じような試合は見たくないと思うだろう。テレビもインパクト(視聴率)が低くなる。
しかし日本人対日本人の試合だと前の試合から、どっちの相手がどのくらいが成長したのか、もうあの相手には負けないだろうと観客が両者の実力を推理し、試合の流れ、技などプロセスの美しさを楽しみながら推理することもできる。この場合は名勝負は生まれやすいのである。
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