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「2」 G・馬場対J・鶴田戦
昭和50年12月15日仙台・宮城県スポーツセンター、オープン選手権30分1本勝負。
1. 16分49秒体固めで負ける。
夢の対決ファン投票第1位のこのカードで、初めてジャイアント・馬場選手との一騎打ちを行なった。感情が入りがちな日本人同士の対決であったが、この試合は「さわやか」なクリーンファイトに終始した。私はケレン味なく攻め込んだが,師匠の厚い壁に阻まれ、最後はネックブリーカー・ドロップ、かわず掛け落としで負け、私は師の実力とは、これほど奥深いものなのかと思い知らされた。プロレス道の「強さ」と「魅せる」両方を身体で表現することの難しさが解り、以後トレーニングに益々励んだ。コーチ学的には試合の前からG・馬場選手という大きな存在感に飲み込まれていた。技の1つ、ルー・テーズ式バック・ドロップも中途半端になり自分のペースに持ってゆけなかった。例として寝技の状態から持ち上げ、自分の肩に相手の臀部を密着させ自分で相手をコントロールしてマットに叩き落とす。プロレスではルー・テーズ式変形バック・ドロップまたはパワー・ボムと言う。また相手を自分の肩の上に乗せてカナディアン・バックブリーカーに持って行く。マスコミが師匠との一騎打ちを扇動するのでファンは感情の入った喧嘩試合を期待していたと思われる。しかし今はマスコミの誘惑に乗らず、クリーンな試合を進めることが長い目で見たら馬場社長と私の関係が長く続いている原因であると思っている。馬場社長はそのレスラーの人生一生を思って考えていると感じて、自分はその後の人生を選択するのに非常に良い人であったと思い、つくづく人生は「出会いと別
れ」の繰り返しである。
「3」バーン・ガニア対J・鶴田
昭和51年3月10日東京・日大講堂。鶴田「試練の十番勝負」第1戦60分3本勝負。
1. ガニア裸締め19分54秒
2. 鶴田原爆固め9分54秒
3. 両者カウントアウト13分52秒
元AWA世界王座のバーン・ガニアの実力は本物だった。激闘42分ガニアの秘技バックドロップが爆発し、遂に私は力尽き、またバーン・ガニアも起き上がれなかった。ガニアとの初めてのシングル戦だったが、同じアマレスの大先輩なので、やりにくい半面
、やりがいもあった。私のスリーパー・ホールドは、この人の技を参考にし、盗んだものである。
ジャイアント・馬場選手は「勝ち負けは問題でなく、世界の強豪と当たることによって、鶴田がそれから何かを得れば、目的は達成される。十番勝負が終わった時の鶴田を楽しみにしている」と語り、馬場選手は私に王道を歩いての大成を期待した。私も「試練の十番勝負」第1戦に大物選手で大いに満足し、多くの秘技バックドロップ、スリーパー・ホールド技の「こつ」を得た。ガニアの関節技は観客に見えないところでしっかり私の腕、足、首、を決めてきた。コーチ学的にはレスリングの基礎テクニック、相手の腰に重心をあびせて動きを止め、さらに立てなくするために左足を殺している。完璧にコントロールしつつ、攻撃をゆるめない。左足を殺し、同時に右腕を殺すという技術は寝技の基本である。攻められた側はつまさきを立て、相手のコントロールに任せず、虎視眈々と反撃の機会をうかがう様子は、名のあるレスラーを感じさせられ、起訴の大切さをこの試合を通
じて改めて思い知った。
「4」ラッシャー木村対J・鶴田戦
昭和51年3月28日 東京蔵前国技館
鶴田「試練の十番勝負」第2戦60分3本勝負。
1−1から両者ダブル・フォール引き分け。
国際プロレスとの対抗戦では、全日本プロレスの総大将として、国際プロレスのエース、ラッシャー木村と対決した。この試合は私にエースとしての自覚を促した大きな試合であった。この試合は日本人同士という特別
の感情が入り、また対抗戦という独特の雰囲気の中で、どちらも負けられず意地と意地がぶつかり合い、観客を大いに魅了した。結果
はバック・ドロップからの両者ダブル・フォール引き分け。ここで日本人観客は技術の試合よりも、感情の入った喧嘩試合を求めていると感じた。コーチ学的にはテクニックでは見るべきものは何もなかったが、張り手など気迫のある喧嘩試合(心の入った試合)が出来たと思う。今にして思うとその相手とタッグを組んだりして試合をしていると何か感慨深いものがある。
「5」T・ファンク対J・鶴田戦
昭和51年6月12日 東京蔵前国技館
鶴田「試練の十番勝負」第3戦60分3本勝負でNWA世界ヘビー級選手権戦。
1. 15分50秒回転エビ固め
2. 6分5秒回転股裂き固め
3. 5分12秒片エビ固めで鶴田の負け。
アメリカの師匠であるT・ファンクと対戦して精神的にゆとりがなく、試合内容が硬かったと反省している。世界一のNWA世界王座に挑戦と言うことで緊張し試合内容を把握する事の大切さ、また私も経験不足を痛感し、NWA世界王座は何度も何度も挑戦して王座を掴むものだと思った。ファンは私が負けたけど、明日につながる試合だと益々熱く応援してくれ、私のファン層がますます多くなった。プロレスは勝負と試合内容の
大切さの両面を持っていることを痛感し、そこがプロレスのもっとも難しいところである。コーチ学的にはT・ファンクは次男で天真爛漫の性格でタフネスで計算された強さはないが、パワーと大胆な読みがあり試合運びが分からない強さでもあり、弱さでもある。得意技は相手の右腕をロックし、裏返しにして首をインディアン・ロックして「ゲランド・コブラ・ツイスト」や「トウ・ホールド」に入りフォールする。また相手の右腕を離し、もちかえて「股裂き」に変えてフォールする。T・ファンクも今は違う団体で試合をしており、そのラフ・ファイトをみると感慨深いものがある。
「6」J・鶴田対B・ロビンソン戦
昭和51年7月17日 北九州市小倉区三萩野体育館
鶴田「試練の十番勝負」第4戦60分3本勝負
1. B・ロビンソン(エビ固め、29分5秒)
2. 鶴田(エビ固め、21分52秒)
3. 時間切れ引き分けの後5分延長したが時間切れ。
私が一番多く対戦した相手は「人間風車」と呼ばれたロビンソンだろう。リング上40度近い猛暑の中、両者とも高度のレスリングホールドで一本づつ取り合い、迎えた三本目は力尽き気力だけで立っていた。この人とは数え切れぬ
くらい戦っているが、この溌対戦は、とにかく暑かったのを覚えている。でも戦いたかった相手だから必死で攻めた。とにかくこの試合は持久戦で私の「若さ」とB・ロビンソンの「面
子」の激突だったと思う。コーチ学的には汗で滑っていろいろな得意技が掛からず満足しなかったが、ファンも暑くてイライラしながら試合を見ていたと思う。冷房施設がしっかりした所で力と力の勝負を彼と闘いたかったと思う。この時代はカール・ゴッチ、B・ロビンソンが本格派のレスラーの代名詞でレスラーの仲間同士でも一目置いていた。それに勝つことがレスラーとしての自分の価値を上げる手段であった。カール・ゴッチは哲学的思想的で、プレイは強さを求めて行くタイプで、観客を魅了するファイトには興味を示さなかった。そのため興行面
では観客を集めないからレスラーには嫌われていた。しかし大学で関節技の取り方などを教えるなどして頑固な独特の人生を歩いている。B・ロビンソンは頭からレスラーだったため、その後レフリーになり一生をレスリングと関わりを持った生活をしている。
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