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第6節 早稲田大学レスリング部磯貝頼秀監督のレスリング観
私は柔道を中学校の時にやっていて、高校時代からレスリングを始めた。メキシコの時はたまたまインター・ハイで勝って日本選手権で2位
になり、3人位残ったが1勝1敗でこれからの将来性を考えて彼に決まった。その時の印象はただ騒がれただけであった。あの時代はアレキサンダー・メドビジ(ソ連)の時代でローマ、東京、メキシコ、オリンピック3連勝した選手である。その選手と1回戦に当たり、2回戦がブルガリアの選手でその選手は銀メダルだった。くじ運がものすごく悪かった。小学校時代は何もやっていないが、少年スポーツ・クラブがなく、ただ野山を駆け巡ったり、原っぱでソフト・ボールをやったり、学校には走って通
っていた。今の子供とは「生活筋肉」が違っていた。自然の力の方がバーベルの力に比べレスリングに有効だと私も考えていた。
これ私の持論でもあり彼も同意していたことであるが、自然の力でつけた筋肉の方が総合力として強いし、その後その上にバーベルでつけた人はスポーツに必要な筋肉が付いているからさらに強いのだと思う。(鶴田)
ミュンヘン・オリンピックの時は、ライバルがいないで練習していたが、突然鶴田くんが現れて驚いた。合宿中にコーチの佐々木さんが鶴田くんに私の弱点を教えた。相手の嫌がる構え、タックル、などを研究した。背が高く、力があったので私の得意技の左足タックル、両足タックルが通
じなかった。合宿中に佐々木コーチが私の技を全部チェックした。鶴田くんは体力的に今までの先輩たちとぜんぜん違っていた。握力、脚力、はオリンピック選手中で1番で、レスリング界にいなかった。印象としてはそう感じたが、他競技の柔道選手は意外と力がなく、「明らかにバスケットボールから来た筋肉は違っていた。もともと太った人でなく、生活環境などで、いろんな基礎体力がついて均整がとれ生活筋肉がついていた。背が高かったが、非常に腰が強かった。こういう背景を持ちミュンヘン・オリンピックに参加した彼と私にとってオリンピックとは何だったのだろうか。(鶴田)
私は、2回目ということで、オリンピックの4年間待っての選考の最終試合は、意地で支えられていた。たぶん私よりも鶴田くん方が体力もあるし、体力面
では負けたかもしれないが鶴田くんの方は経験がなかったから、それで互角に闘えたのではないかと私は思う。体力的には負けていたが、あとは精神的な意地と経験で補ったのである。
大学4年生だから、次の人生の選択があったが、私はこれで終わりだと思ったし、瞬間的には悩んだが私はこれでアマチュア・レスリングを辞めると決心したのである。
私は父の死と大学を卒業後の就職が、自衛隊体育学校などなので、その後の生活環境を知っていたし、八田会長の「プロが栄えれば、アマも栄える」の言葉でレスリングの競技人口拡大のためにプロレスを選んだのである。本来の意味では、私が大学院を出てから、これからの人生が、社会貢献の仕事であって、もっと競技人口を増やすように、アマレス、プロレス界のために尽くしたい。プロレスが30団体にも増え難しい時代に入ったが、プロレスをもう1度メジャーに戻すために、アマレスの強い選手をプロレスに入れて、そこで活躍してもらえば、また子供たちがプロレスラーなりたいということで、アマレスをやりプロとアマの交流をし、お互いに協力し、発展して行きたいと思う。(鶴田)
最近のプロレスには小さい人もやっていて、プレイ内容さえあれば十分アマレスの選手でも通
用する。中には格闘技的な魅力あるプロレスも出てきて、大きい人だけのプロレスではなくなった。この交流によって、アマレス振興の資金を集めることもできる。日本のレスリングはオリンピックに3回出て、世界選手権には3回しか行っていない。その理由はアマレス協会に資金がなくて、自己負担が多く行けなかったのである。選手が会社に入って出張扱いて世界選手権に出たという例もある。オリンピック出場も周りの支援によっての出場だという。練習環境を会社は与えてくれないが、普通
に仕事をしていれば、試合の合宿には参加させてもらえている。しかし、レスリング選手にとって、これは理想的環境ではない。
人間は精神的に切れると、肉体的には良くても良い成績がでない。アマとプロの交流はアマレスからは無理だから、プロレスの方から道を開ければよいと思う。日本のアマレス協会は資金がなさ過ぎる。試合のルールが1試合5分で延長試合になる。また日本のレスリングの歴史はまだ浅いために、ルールの変化に対しても問題が多い。例えば昔、ガブリ返しで、肩ついて投げたら2−2ポイントだったが、今は投げた人が2〜3ポイントとる。ガブリ返しのかけ腕がきまると、子供たちの育成で気をつけるべきことは、子供たちが膝とか腰痛とかの病気持ちになってしまうことである。日本の小学校、中学校の指導体制が全くできていない。大学で監督をしてわかったことだが、中学からきた選手の身体はボロボロである。大学に治療しに来るみたいだ。子供からやっていると早くバーン・アウトしてしまう。自分のピークが25歳位
(オリンピック)に持っていく指導体制が必要である。(鶴田)
多種目の競技スポーツを経験し、自分の1番得意なスポーツを選択し、またそれをシーズン制にしてあらゆる角度から総合的に鍛えるのがバーン・アウトしない方法だと思う。監督が一緒に考えて指導すると、選手は一生懸命やる。そして伸びる。しかし一番困るのは高校の先生が絶対的指導者として存在している時である。思考することを指導しないで、昔でいう「しごき」なのである。
彼と私の持論だが、一種目のスポーツを1年間やっている大学は強くならない。日本もシーズン制にして、小さい時はいろんなスポーツで筋肉をつけ、また精神を鍛えるべきである。私は柔道を中学校まで続けたが、そのままやっていたらオリンピックに出場できなかったと振り返っている。上村春樹選手など強い選手がいたからである。
スポーツを文化として捉えていない。これも大きな問題である。大学の偏差値が高くなると、スポーツは頭の良くない人がやるものととらえる風潮がある。学校の先生はスポーツなどやっているといい大学に入れないと指導する。したがって体育会はスポーツに強いだけでなく、文化を理解する人間にも考慮すべきである。テレビ、報道がメダル至上主義になっている。アマレス指導者はアメリカに行って日本のスポーツ界を見ると少しおかしいと感じるはずである。世界選手権は別
にして、オリンピックは観客と選手が交流して、文化に貢献することである。
いまの日本では相撲界、スポーツ界で文化にお金を出す企業はない。自分の所の宣伝協会に捉えている。そういう経済社会の中でアマは育たない。政府はもっとオリンピックに援助する企業を税で軽くするとか、なにか方法考えるべきである。青少年に悪い影響を与えることから競輪、競馬、競艇の宣伝を日本ほどやっている国はない。その反面
、日本ではサッカーくじは良くないと論議をしている。こんな国もない。広告媒体でどんどん宣伝しておいて、青少年にやってはいけないと言うのはおかしい。マスメディアが一番問題であると言っている。
第7節 まとめ
アガルとはスポーツでどういうことなのか。プレッシャーで自分の本当の技量
が出てこない。身体がガチガチになる。何かやろうと思っても身体が動かない。技にスムーズに入れない。自分の100%の力が70%ぐらいしか出ない。
アトランタ・オリンピックの日本選手団が、期待した選手が振るわず、逆にそれほど期待されていない選手がいい成績を上げた。大試合で力を十分に発揮した選手とそうでなかった選手の違いは何処にあったのか。
選手の心の問題も結局は毎日の練習の積み重ねである。ただ難しいことは筋力トレーニングと違って練習の成果
が目に見えないことである。心の持ち方と周りの環境が問題である。いかにしてピーク、パフォーマンスイ・メージを作るかが重要である。
1つ目に勝利に対する選手の態度である。 競技で勝利を優先させたために、メダル取りの可能性にあった選手は、アガってその目的を達成できなかった。試合結果
に注意が向き、肝心なプレイの瞬間に集中力を欠いたからである。メダルを取るか取らないかは1つの結果
であって、それ以前に自分の力を100%発揮することが重要である。
2つ目に試合の調整である。 不振に終わった選手は試合に対して意図的にリラックスしていてように思う。これは、「過度の緊張」の裏返しである。例えば試合前にゲームを楽しんだり、アフロヘアや、かぶり物をつけて競技会場にきた水泳選手が目についた。競技では適切な緊張のレベルを保持して、適切な集中状態に持っていかなくてはならない。試合前の生活態度、入場する時の行動、競技直前の目の動きや動作に現れる。これはハイ・ビジョン放送になればもっとよくわかる。
3つ目に社会的支援に対する選手の受け止め方である。 国民の経済的、心理的な後押しで、メダルを期待されていると感じると、これは強いプレッシャーやストレスになる。競技者である自分を生かしてくれる社会の暖かさととると、自信を深め、情緒的な安定を得る。今回のオリンピックは国民の声援をメダルへの期待と受け止めた選手が多かったと思う。五輪参加、社会的支援を自己実現のひとつと思うことができず、社会的に未熟であったと思う。選手の心理的問題を解決するためには、スポーツ心理学の専門家のアドバイスが必要である。アメリカ、オーストラリアなどの選手団には心理学的サポートをするために専門家が参加していた。選手の五輪後、さらに現役引退後も含め、心理面
の選手強化が重要である。
私はオリンピックは平和と若人の祭典で友情、人間愛精神があるべきだと思う。全力を尽くした者同士とその試合を見ていた観客が、自分の国の選手ではないのに、最後には、応援し、感動する。オリンピック&スポーツは国、人種、言葉を越えて世界中の人々に感動を与える普遍的価値を有している。
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