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第4節 大学時代、自衛隊体育学校時代
−ミュンヘン・オリンピックを目指して−
私が高校3年時に、オリンピックがどういう影響を私自身に与えたか。このオリンピック出場選手の中に、習志野高校3年のレスリングの磯貝選手がおり、私は強い影響を受けた。オリンピックは大学を卒業して社会人のトップの選手が日本代表になるものと考えていたので驚き、私もひょっとしたら次に出られるかもしれないと思った。またレスリングは狙い目として、私は有望だと考えた。しかし、実際には私はバスケット選手なので、オリンピックを考えてはいたが、まだリアリティがあるとは思っていなかった。また日本のバスケットの選手が国際的水準でなかったから、アジア予選で負けてしまっていた。
私の大学時代のスポーツの最高舞台は、1972年ミュンヘン・オリンピックであった。私は自分の青春を賭けるのに十分価値があると思った。高校から大学に入り、そこでバスケット選手からレスリング選手なった契機に、中央大学のレスリングが強かったことがある。法学部を受験したのは「つぶしが効く」と思ったからである。のちのちいろいろなことに対処できると思ったからである。体育大学に入ると、高校の先生にほとんどがなる。経済学部、商学部なども考えたが、就職率など考えて選定し決めた。中央大学の黒須監督に出会い、私はバスケット部に入ることにした。しかしこのままではオリンピックに出られない、なぜなら日本バスケットボールのプレー水準が国際水準になかったからである。このことがとても不安であった。だからレスリングに移り、オリンピックに出場することを目標にしたのである。
その時の気持ちと、バスケット部の同僚、先輩、後輩、のアドバイスはどうだったのか。レスリングを選ぶということは、高校時代からの潜在意識が顕在化したのだと思う。オリンピックに出たい、だからレスリングを選ぶ、この時の強烈な動機、またオリンピックに対する強烈な憧れについて次にふれてみたい。
中央大学法学部に入学したころ、(昭和44年4月)学生運動で事業が行われず、何のために大学に入学したのかなど、自分の青春はこれでいいのかと悩んでいた。大学1年の時バスケットボールの全日本チームの合宿に参加したが、外国のチームに負けて、アジア地区予選も難しいと判断せざるをえなかった。
当時私はオリンピックに出る事が目的であって、何の種目で出るかは手段であった。それには3年の期限があるため、自分一人だけで出られる種目を選ばなければならなかった。バレー、柔道は選手層が厚いので、選手層の薄い種目を選ぶことにした。ボクシングの重量
級は、まず最初から出場枠がないためはずした。同僚、先輩は「馬鹿な事を考えるものではない」「180度違う種目を出来るはずがない」、「やめろ」と強く反対された。バスケットの練習よりもきついレスリングの練習についていけるわけがないという意見もあった。しかし、私は周りからダメだ、ダメだと言われると、やってみたくなる性格だったので、どこで練習をすれば3年間でオリンピックに出られるか、その方法を必死で考えた。まずレスリング部に行きに入部したいと申し入れたら、「きついレスリングの練習について行けない」と二度、三度と断られてしまった。
私はレスリングを始めたのが大学に入ってからなので、普通の人よりも多くトレーニングをしないと日本代表になれないと思っていた。普通
の人の練習時間の倍近くをトレーニングにあてた(6時間練習時間)。 小さいときからやらず20歳から始めたからである。その遅れの分を取り戻すために、より多く練習しないと肉体的にも、精神的にも自信が出てこなかった。まずそれまでやっていたバスケットの身体をアマレスの身体に変えなければならなかった。ボディービル道場&レスリング場で週3回肉体改造をしたが「ローマは1日にして成らず」で時間がかかり悩んだ。レスリングの技術を習得するのにも同じで、時間がかかり悩んだ。自衛隊体育学校で週3回練習し、後は「個人練習」をやった。普通
の人は技術練習だけでよかったが、私は「肉体改造+技術練習」だったので時間がかかった。
では私にとって中央大学のレスリング部はどのように写っていたのか、そして私が入ってから中央大学のレスリング部はどう変わったのか。中央大学のレスリング風土のネガティブな面
、ポジティブな面、そしてそこで私が直面したいろんな問題、その問題解決のプロセスを中央大学の風土に結び付けて振り返ってみたい。
レスリングが強い大学であることをまず知っていた。それも私の選択要件に入っている。しかし最初は中央大学のレスリング部には苦い思い出がある。バスケット部を辞めて入部しようとした時、「バスケット部の練習もついていけない人間に、もっときついレスリング部の練習は出来ない」と入部を断られた。しかし自分はみんなに出来ないと言われるとハングリー精神が強いので「なにくそと思い」中央大学のレスリング部の方から自分のところにくるような人間になってやろうと思い(反骨精神が強いので)、ではどこに行けば一番強くなれるかいろいろ悩み、リサーチして、自衛隊体育学校を選んだ。そこで肉体を作り、また技術を習得して、中央大学のレスリング部に挑戦しようと考えた。
自衛隊体育学校で初めは強くなかったが、だんだんレスリングが面白くなり、それに伴って競技成績も上がり、大学2年で社会人選手権で3位
になり、大学3年の時全日本選手権や国体で優勝できるようになった。大学4年の時、中央大学レスリング部から入部を勧めにきた。大学3年ぐらいから誘いはあったが、自分のコーチは大学を辞めさせて自衛隊体育学校に入れさせたいようであった。自分は卒業してからを考えていたので、少しシコリがあったかもしれない。それで4年の時、中央大学のレスリング部に入ることにした。
自衛隊体育学校の佐々木龍雄コーチは素晴らしい人だった。経歴は秋田経済付属から日大を卒業して自衛隊体育学校に勤務していた。競技歴は東京、メキシコ、ミュンヘン五輪で4位
から7位ぐらいであった。重量級のコーチは体格が大きくないと出来ないので、軽量
級、中量級のコーチでは無理なのである。最初は客人扱いで何にも教えてくれなかった。メニューも部員の出来るものだけやりなさいと言うことだった。しかしだんだん素質が認められて、部員と同じメニュー、アドバイスを受けられるようになった。「これはやるしかない」と思い部員と同じメニューで個人練習をした。
1日24時間のメニュー、1週間のメニュー、1カ月のメニュー、1年のメニューを五輪に向けてのメニューを数表化して立てた。そして実際にどんな練習をしたのか。コーチと自分とのツウ・ウエイの問題点を思い起こしてみたい。最近はコーチ、医者、栄養士、トレーナー、場合によればメンタルなカウンセラーも必要になっている。しかし私の五輪に向けての頃はもっと素朴なものであった。
オリンピックの前に、6カ月合宿を新宿スポーツ会館で行った。ビデオを見て相手を研究したり、技術練習したり、相手の癖を覚えたり、体力測定をして自分の体力がどのくらい向上したか自分自身でチェックした。心理的な面
では八田イズム「剃るぞ」で、夜中に起床して顔を洗い歯を磨いて点呼して寝る、またトイレで寝る、トイレに行くときみんなを起こしていく。などなどいろいろ鍛えられた。外国でどんな環境でも金メダルを取れるように訓練した(イマージェンシーに対する適応の能力を高める)。トレーナーの仕事は怪我とかマッサージが多かった。医者は定期検診やメンタルな面
をサポートした。まだまだ八田会長の指導は(力道山的)精神論中心だった。
自衛隊体育学校で私が強くなっていくプロセス、そして結果が出てきたころの精神と身体の関係に触れてみたい。最初の半年はものになるか、ならないかコーチもわからなかったと思う。自分でもこの道が正しかったのか、バスケットをやっていたほうがよかったのか悩んだ。結果
が出ない分だけ悩んだ。しかし、最後はこの道しかない。今はやるしかない。毎日が新しいことへの挑戦だ。しかし悩んで結果
が出てこなかったら、また悩むことの繰り返しで、冬の雪の日や、雨の日には電車での帰り道、またやめようと何度も思った。練習をさぼって2〜4回、新宿で映画を見たが、その後に何か虚しさが残る。こんなことをしていて、いいのだろうかと後悔する。しかし今日の練習では何も出なかったが、1日、1日の積み重ねが、なにかしら大きな結果
に出てくるのではないかと思い直した。半年〜1年間は悩んで、何度も辞めようと思った。しかし、「一生負け犬で終わってしまってはならない」。何か結果
を出さないといけないと思い「石の上にも三年」の心境で頑張った。1年ぐらいして社会人選手権で3位
になり、オリンピックに出ることに、かすかな芽が出てきた。オリンピックはメダルでなく、出ることに目標を置き3年間努力しよう。そしてだんだん練習が面
白くなってきた。重量級は人材が少ないので、3位〜1位には時間がからなかった。練習でパッとひらめいたことが見つかったとき、グーンと強くなったように思う。それはどういう時に出てくるものなのかといわれても、うまく表現できない。練習を繰り返しやっている中で、フラフラの状態までやった時、何か見えてくる。ひらめく物がある。身体に技術がしんみ浸み込んで来る。それに加えて精神的なもの出てくる。それがだんだん楽しみに変わってくる。八田会長の自分に対する影響力(期待度)が強かった。東京五輪では柔道、相撲選手からのレスリング選手が多く日本人体型であった。しかし私の側へは初めて外人体型で外人と体格で対等に勝負できるといわれて、私も期待されていると思った。
また中大レスリングを取る後、ブルガリアのレスリング風土のように作り、また改善したら、再び日本のレスリングをメジャーにする可能性があるのではないだろうか。こんなことも当時考えていた。環境を変えることで、それは可能なのではないか。私の場合は4年生になり、中大レスリング部から入部の誘いが来た。中大レスリング部は石井庄八、笹原正三、池田三男、渡辺長武、中田茂男など金メダリストの伝統がある。練習での一番の問題点は同学年で練習をしなかったことである。そのために個性を伸ばす練習方法がなかった(一般
的な練習方法、何時に始まり何時に終わる)。選手が個別に筋力トレーニング、持久力トレーニング、調整力トレーニングをしなければならなかった。自衛隊のコーチとの関係はどうであったか。自分の体型、技術の方法がわかっていたので、問題に直面
した時に技、構えなどを1カ月に1度自衛隊でアドバイスを受け練習し、また緊急に知りたいときは電話で聞いた。大学4年になると休みも多くなり、夏休みなどは合宿に参加した。大学4年になり8月がオリンピックなので、新宿スポーツ会館で合宿した。しかし大学選手権は中大レスリング時代の1番の思い出である。中大と国士館大の決勝戦で自分がフォール勝ちしないと、リーグ優勝できなかったからである。私も中大レスリング部の部員になり、部の伝統をどう守るかを考えるようになっていた。そういうわけで、いつの間にかギリシア、ハンガリー、ブルガリア、トルコの国技の風土にはとても関心を抱くようになっていった。
日本のレスリング選手はノーマルでは何歳から始めるのか。小さいときは柔道選手で中、高校時代からレスリングを始める選手が多い。柔道の「体形&技術」はレスリングに良く向いているし、適応しやすい。同じ引く力をよく使う。立ち技は非常に似ている。しかしグランドはあまり得意ではない。なぜなら柔道依がある、ないですごく違うからである。最近は少年レスリング出身者も多くなっている。
軽量級・中量級の場合は、70〜80%ぐらい柔道や少年レスリング出身のようだ。あと陸上競技(10種競技とか)、体操などの出身者も多い。山梨学院高校レスリング部についてみると中学時代柔道2名、陸上2名、バレー3名であった。早大、国士館大、中大、専大、大東文化大、日大などの選手の競技経歴を聞き、いつからレスリングに入ったか。アンケート調査で課題にしてみた。
欧米ではレスリングが小さいときから日本の柔道&相撲のように盛んにやられている。アメリカでは、シーズン制なので季節によってスポーツを併用する(フット・ボール&レスリングなど)。国技であるのはブルガリア、トルコで、日本の相撲のように人気があり、社会的にも大切にされている。ソ連(サンボ)、ハンガリー、旧東&西ドイツ、ポーランド、チェコ、イギリスも併用型である。このような国では、古代ギリシア以来のレスリングの伝統の流れに沿っていると言ってもよいと思う。最もギリシアも昔は強かったが最近のレスリングは強くない。現代ギリシアではなく、東方圏で伝統としてレスリングの根付いている国のルーツを探れば、古代ギリシアにぶつかるのではないかと思う。現代においても古代ギリシアの身体美とレスリングとの関係の伝統が生きているのではないだろうか。またレスリングから逆に古代ギリシアのころのムード芸術を思い起こすこともできる。これも本論文の課題のひとつである。アメリカ、カナダの場合はテキサス、オクラホマ州で盛んである。これらの州においては住民&大学などが地域をあげて応援し、レスリング大会の会場は満員になりメジャーなスポーツである。アメリカの場合は子供からレスリングを習っている。いろんな競技(バスケット、フットボールなど)をやりスポーツのシーズンによっていろいろな競技種目を習っている。レスリング選手はフットボール選手を兼ねており、プロレスラーのルー・テーズの連勝記録を弾丸タックルで止めたレオ・ロメリーニ選手が有名である。ミスターX(B・ミラー)選手も兼ねていた一人であり、デストロイヤーもそうである。最近ではスタン・ハンセン選手が得意技のウエスタン・ラリアートをアメリカン・フットボールから工夫している。
イギリス、フランス、北欧などではスキー、スケート選手に人気があり、レスリングではあまり良い選手が出ていない。イギリスはサッカー・陸上競技、テニス、ゴルフが盛んであるが、格闘技が好きな国なので柔道&レスリング選手も多い。フランスはサッカー、テニス、自転車、柔道&レスリングが盛んである。
私がバスケットからレスリングに移る時に、肉体の改造と技術の習得が課題であって、そのために練習を普通
の部員の倍おこなった。技術習得は自衛隊体育学校に通って身につけた。そこで体験した問題点をあげたい。最初はお客さんとして扱われ、あまり歓迎されなかった。しかし本人のやる気と競技成績が上がってきたことで、コーチがだんだん熱く教えてくれた。部員と同じメニューをこなして、あとは個人練習をし、また合宿に参加させてもらった。
その時の最初のトレーニングのメニューとだんだん強くなってきた時のトレーニングのメニューは、最初はきつくてついていけなかったが、徐々に体力がついてきたので、苦痛でなくなった。例として腕立て伏せ100回を目標にしたがやがて200回になっても苦痛でなくなった。自分の精神状態もそれをやることによって楽しくなり、「心、技、体」とも強くなってきたことを実感できた。また充実した生活であった。それによって大会の競技成績も上がった。レスリングに愛着も出てきたし、練習は体力的にきついが精神的に充実していた。練習のメニューに課題が多くあった。簡単にマスターできた課題は、自分の競技種目に関係した両足タックル(ラグビー流)である。この技に入るタイミングまたはフェイントしてからの身のこなし方には、バスケット流のスピードが必要である。ラグビー、バスケットを経験していないとできなかったと思う。重量
級の場合は相撲、柔道出身者が多く、速い動きについて行けない選手が多い。しかし自分はラグビー、バスケットを経験したことが非常に良かった。難しかった課題は力である。相手のバックに回るという動作が、ラグビー、バスケットにはなかったので苦労した(片足タックルから耳をつけて相手のバックに回るという動作や持ち上げるタックルなど)。それでは相撲、柔道から入って来る人にとっての得意の技はなにか。相撲、柔道出身者は投げ技が得意である。しかし1本背負い投げ、首投げをなど回しや柔道衣がないため掴めない。また持久力がない(一瞬の力はあるが長く続かない)、ラグビー、バスケット選手は持久力がある。グランド・レスリングはバスケット&ラグビー選手、柔道&相撲選手ともに苦手であった。その問題をどういうかたちで克服したか。レスリングの基本は、まずタックルから片足をロックし、次にその反対側の腕をロックする。両足をロックされると相手は立てない。首を抑えると人間は立って起き上がれない。基本を学び、何回もくりかえし体得することが重要である。スポーツは頭で考えてから動作するのでなく、一瞬のうちに身体で覚え、何回も同じ動作を体験して強くなっていく。それに自分の特徴を生かした応用業を生かしていくことである。
チームプレーのバスケットから対人競技のレスリングに変わったので、試合に臨む「心、技、体」の充実が重要で、まわりは敵で自分一人で、闘わなければならなかった。チーム競技と対人競技との差を非常に強く感じた。具体的な例ではチーム競技はみんなで優勝に向かって行けばよいが、対人競技の場合は、まわりは敵で自分一人で闘わなければならない(自分のクラスはみんな敵)。相手に得意技を見せない、相手のいないところで新しい得意技を研究して身につける、相手の嫌がるスタイルで構える(相手の得意技に入らせない)。
私はバスケット、ラグビーから入ったが、例えば小さいときからそういう風土の「生活筋肉」で育ったブルガリア、トルコなどでは、身体をいかにして作っているのだろうか。また技術をどう習得するのか。いま言われた心理的な課題をどう作り上げていくのか。これは環境によってごく自然に作られていくものなのか。環境と選手との相互関係で強くなっていくのか。いろんなスポーツ種目からレスリングに入ってきた選手が、上記の問題で悩んでいると思う。そういう風土が非常に豊かな国、例えばブラジルのサッカー選手が育ってくる場合のような例はないのだろうか。選手のハングリーさとコーチの選手を育てる環境と、選手の「やる気+練習量
」によって変わってくるのだろうか。対人競技の場合は特に相手が嫌がる組み手に組ませる)例:相撲では右四つ、左四つに組ませる)相手の大会のビデオを見て研究する。相手の嫌がる組み手を習得する。こういった課題を自然に解釈するような風土が日本にはまだ出来ていない。
私は屈辱感、苦い経験を経ながらそれでも、レスリングをやろうと決心した動機は何処からきたのだろうか。私にとってオリンピックはアマチュア・スポーツの最高峰であり、プロを除いて最高の舞台であった。大学の思い出に、いや青春の思い出にいろいろ考えてみたが、オリンピックに出るにはバスケットでは難しい。私にはレスリングが最も可能性がある、そこで自衛隊体育学校で練習するのが一番早いと思ったのである。
大学生になってから、オリンピックの世界になぜそこまで物狂いしたのか。それは世界選手権は毎年競技別
に開かれ注目もされるが、競技スポーツ選手にとっての最高の舞台はあくまでオリンピックで、「より高く、より速く、より強く」の精神で世界の注目を浴びてプレーできるからである。その舞台でプレーする喜び、世界中の選手と競い合う喜び、世界中の人々と選手村で生活する喜び、人種を超えてスポーツマン・シップにのっとり友達になれる喜び、この4年に1度のオリンピックの世界は最高の若人の祭典と思ったからである。これに出ることは自分にとっても名誉なことだし、社会的にもスポーツマンとして認められるからである。だからどうしても私も参加したかった。私にとって最も身近な「社会的価値+個人的価値」の追求の場といってよかった。オリンピックまでは合宿をしていて、全日本選手権が5月にあり、それが終わり、また短い合宿に入り、8月がオリンピックだったので、新宿のスポーツ会館から岸記念会館に行き、オリンピック一式のブレザー背広などの寸縫などをしてもらった。他に体力測定をしたり忙しかった。心はミュンヘンに飛んでいた。ミュンヘンには日本航空の特別
機で2機に分かれて出かけた。バレーボールの選手と一緒だったので羽田空港は若いファンが多かった。大古選手、森田選手、横田選手、南選手、島岡選手など五輪の入場式は先頭でバレーボール選手と話しながら行進し、興奮した。ブランデージ会長の話に非常に感激した。ミュンヘンの選手村に入り毎日練習と、たまに街でショッピングしながら毎日充実した規則正しい生活(練習、休息、食事)を送り、2人部屋でトイレとキッチンの日本の2DKぐらいの広さであった。しかし、アラブ・ゲリラの侵入が起きて政治色に変わった。私は大会の花火ではないかと楽観していたが、朝起きると戦車が選手村をとり囲んでいて、最初は何が起こったのか分からなかったがテレビで出来事を知った。重量
挙げとレスリング選手が殺され、自分の対戦相手が変わって抽選をコーチがやり直したと記憶している。またにブランデージ会長がテレビで演説し、オリンピックに政治を持ち込んではいけないとスピーチをし、平和の祭典オリンピック旗を半分おろし、アラブの選手に哀悼を捧げた。
私の試合は1回戦がポーランド選手で、2回戦がチェコ選手と対戦し警告負け(技をかけながら前に出ない)で実力を出し切れずに終わった。3年間の練習では世界では通
用しなかった。フォール負けでなく、相手の戦術や、世界のルールなどを研究していなかったので負けたのである。オリンピックで初めて3分闘い1分休みの3ラウンド闘うことの緊張感を知り、私は次のモントリオール五輪でメダルを目指すぞと思った。2回戦で負けてしまったわけだが、2回戦では敗者復活戦はない。2回戦警告負けが私の五輪の公式の競技記録である。磯貝選手も1回戦ポイント負け、2回戦も負けであった。しかし実際参加してみて10万人の開会式の先頭を切って入場した感激、またブランデージ会長の開会宣言など、世界中のマスコミ、テレビなどの取材などで世界の祭典に出ているんだという興奮と感動があった。自分の国の順番が来るまで時間があり、会場の外でおむすびを食べたり、違う国の選手と話し合ったり、楽しい一時を過ごすことができた。日本の他の種目の選手たちとの交流の楽しさや、試合だけでなく世界中のいろいろな選手たちの交流も楽しかった。私はバレーの日本選手と飛行機が一緒だったが、羽田空港のバレーファンの若い女子学生の様子はまさにパニックであった。
当時テレビの男子バレー「ミュンヘンへの道」が大人気で、私は大古、森田、横田、島岡、猫太選手たちと話し合う機会があった。特に大古選手とは「大会が終われば俺はどこかのバレー部の監督だけど、鶴田はプロレスができるから良いなぁ」といわれ、そこでもプロレスに動機づけられたのである。行きの飛行機の中でバレーの選手に帽子にサインをしてもらった思い出もある。選手村ではバレー・バスケット、陸上、ボクシング、などいろいろな選手と交流したが、ボクシングの小林選手は自衛隊体育学校なのでよく話し合った。その後、彼もプロになり「ロイヤル・小林」としてデビューした。当時の世界的選手は米国水泳のマーク・スピッツ選手で、金メダル7個を取り、大会の華であった。選手村でもテレビやマスコミ関係に追っかけられ、世界のスーパー・スターであった。練習会場に入れるのは、競技別
で、試合場も種目別に選手が入れるだけで、他の種目の選手は入場できなかった。それはアラブ・ゲリラの潜入を防ぐための規制であった。他の試合を見たいときは、チケットを買わなければならなかったのである。例えば、体操競技の加藤久男選手(現筑波大教授)の試合が見たい場合は、チケットを買い体操競技のある会場までいかなくてはならなかった。自分の試合と重なったりして、バレーの準決勝のブルガリア戦も見られなかったので帰ってテレビで結果
を知ったのである。
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