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私(鶴田)はこの問題に関して言うと、合宿所は私の家のそばなので練習はいつでも見せる。別 に隠したりしない。打ち合わせをすると言うけれども、相手の選手を呼ぶことはできない。外人は前日に来日する。試合前に話をするとしても、動きをせずに30分以上の試合ができるだろうか。自分でやってみると分かると思う。ぜったいに動けない。日本人同士でも試合前の数分間の話だけで10分〜20分の試合が出来るだろうか。それは出来ない。プロレスはジャズのフレームと一緒で自然の流れに任せてプレイするのである。 偽造を維持するもう一つの手段をゴッフマンは「裏付けの陰謀」(backup designs)と呼んでいる。人がフレームを疑うようになってくる時、そのフレームを確かめる証拠を求める。その証拠を信頼すればするほど、人は証拠の偽造に入って行く。プロレスの陰謀として第一にあげるのが血である。血はプロレスが本物であることを裏付ける効果 を持つ。「プロレスは一種のショーだと思って見ていても、血が噴き出すシーンになると、途端に無意識のうちに興奮して、カアッとなる」と言うプロレス・ファンの証言は、血と言う裏付けの陰謀の効果 を示している。その極端な例は、プロレス「ショック死事件」である。 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、エイズの問題が出て来てから団体によっては血を禁止している。現代ではなく力道山時代の事件である。現代は血で観客を呼ぼうと考えない時代である。 本当の血、本当のケガこそ、プロレスは本物であると言うことの裏付けになる。もう一つの裏付けの陰謀をゴッフマンは「インサイダーの愚行」(insiderユs folly)と呼んでいる。フレームに合わせて組織された行為の維持に失敗した人、フレームからはみ出した人は、そこで本気であると思われたい人こそ、こういうフレームからのはみ出しを見せるのである。プロレスはまさにこの失敗の見せかけがみられる。 ゴッフマンは、偽造が成り立つ条件が、力道山のプロレスの成立に「情報が限定されている」と言う条件が重要であった。「情報は単一の出所から得られている」と言う条件である。「プロレス風雲録」には、「各地にチャンピオンが乱立して、ローカル団体やそのタイトル数は、数え切れない。 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、これは興行的にプロモーターが金儲けをする手段である。レスラーはその手段として使われる。だが一部分の使いづらいレスラーがおり、これは相互に実力が備わっていないとプロモーターが金儲けをする手段に入らない人である。 ゴッフマンは参加する場面に適用できるフレームが手元にないときや、適用できると思っていたフレームが適用できなくなったように見える時などを不定的経験(negative experience)と言う。不定的経験は単純の芝居で多く見られる。観客の没頭は、芝居の成功だけでなく、芝居の存在理由である。プロレスは不定的経験の使用の最適な例である。喧嘩はルールによって格闘技に転形され、そのルールが無視されると転形のフレームが壊される。プロレスの反則も、転形されたものであると言うことへの挑戦であり、喧嘩というフレームへの逆もどりの見せかけである。プロレス本来の魅力は=フレームへの攻撃=観客に不定的経験を提供する=観客はそれに対して熱狂する。また下からの攻撃もある。観客がリングに物をなげたり、リングを取り囲んだりすることである。下からのフレームへの攻撃が出現することは、統制の失敗ではなく、むしろ観客の熱狂を高めることに成功したという証拠である。 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、部分的にはそういう例もあるが、猪木とハルク・ホーガン戦などは観客が熱狂したのではなく、不平不満のためにリングに物をなげたりし、決して成功したと言う証拠ばかりではない。 プロレスには善玉と悪玉がいる。悪玉はフレーム壊しに出る。転形である試合がルールを無視して、生の喧嘩になりかかる。反則を耐えに耐えた善玉 は正義の味方になって、あらゆる手段で悪玉を叩きのめす。村松友視は力道山のプロレスを「殿中松の廊下形」と言っている。そして集団は試合の結果 を分かち合う。社会学者T・パーソンズの用語を使えば、スポーツの主な機能は統合とパターン維持である。スポーツは集団の連帯感を助長する。伝統的かつ支配的な価値やイデオロギーを反映して維持するのである。 エドワースは、「イデオロギーというのは、社会的役割に伴うパターン化された緊張に対する、パターン化された反応である。イデオロギーは、緊張から産み出される情緒的なエネルギーのたねの象徴的なはけ口である。その反応が最終的に落ち着く対象は、反応の起源には象徴的にしか関係していないかもしれないが、なんでも象徴になりうるというようなことはなかろう。」社会的役割の緊張から生じるイデオロギーに基づいているスポーツは、自分の目標達成や社会的かつ精神的安定を邪魔してきた勢力に対して攻撃をしているわけである。日本のプロレスは敗戦がもたらしたストレスに基づいて、それを象徴的に解消していた。それと同時にプロレスは、西洋に追いつき、追い越せと言う、攘夷論的な戦前からも存続しているイデオロギーを再生産していたのである。「日本人」と言う集団の生活の苦難の原因と思われた「進駐軍」を象徴する外人レスラーを「ぶっとばす」ことによって、「日本人」という集団を代表する力道山は民族の英雄になった。力道山のプロレスにおいて、悪玉 の役が常に外人レスラーにやらされていたと言うことは、以上のように説明できる。その基底には、悪玉 対善玉のフレーム壊しによる不定的経験の図式がある。現代では「日米対抗」の要因が少し薄くなっている。しかし、プロレスの根本である不定的経験の提供は変わらない。 この考え方によればプロレスは転形されたものでなく、偽造されたものでなければ、ならなかったかという疑問が残る。当時、国際的な場で活躍する水泳、ボクシングなどのスポーツ選手もいた。変形されていないスポーツでは、勝つこともあれば負けることもある。変形されたスポーツであるプロレスは、ファンの期待に確実に応えることが可能であった。しかし、力道山の勝利は単なる芝居であってはならなかった。当時の感情はあまりにも強かったので、本当に外人レスラーを倒していなければならなかった。変形を認めることはできなかった。転形として見てもらうのは不可能であったために、偽造として栄えたのである。 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、最初は日本人同士の試合や日本選手権などを興行したが、少しずつ観客の要望を取り入れて、日本人対外人にしたと力道山の息子百田氏にインタビューで聞いた。当時の世論で「日米対抗」が一番お金儲けができると思ったのである。最近の日本では悪玉 対善玉のフレームではなく、日本人同士の格闘技的な試合が人気を集めているし、エンターティメントからだんだん強さを求めるプロレスが主流になってきている。これは力道山時代の喧嘩の強さから、ルールあるスポーツ的プロレス(格闘技)の強さに移ってきている。現代プロレスは女子プロレスまで入れると30団体があり、観客が自分の好きな団体を選択でき、人気のない団体は滅亡する。ある意味ではこんなにプロレスを自分自身の好き嫌いで選べる時代である。私はぜひ八百長とか暗いイメージで捉えないで、ジャンルの違うスポーツ、または格闘技として、もっとプロレスの醍醐味を楽しんでもらいたいと思っている。そういう観客やレスラーの考え方が、プロレス業界発展に少しずつ寄与できることであると思う。
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