プロレスのフレーム分析
〔Professional Wrestling in Japan-Media and Message〕
リー・オースティン・トンプソン著

プロレスのフレーム分析〔Professional Wrestling in Japan-Media and Message〕 からゴッフマンの各問題提起に対し、プロレスラーの立場から私(鶴田)の意見を入れ考察したいと思う。

 ゴッフマンによると、人々はフレームによって状況を理解し、その状況に適合した行為を取る。ある社会的場において何がおこなわれているかということを、フレームによって認知しようとする。ゴッフマンはこういうフレームをまず「基礎フレーム」(primary frameworks)とその変形されたもの(transformations)に分ける。そして変形には二種類あり、転形されたもの(keys)と偽造されたもの(fabrications)が在るという。例えば、喧嘩というのは基礎フレームによって認知される行為である。ボクシングなどの格闘技は、喧嘩という基礎フレームの変形されたものである。それぞれの格闘技の試合を理解するには、まず喧嘩の理解がなければならないが、格闘技の試合は単なる喧嘩ではない。それぞれのルールによって、統制されている。このルールは生の喧嘩の形を変えるのである。従って格闘技は昇華された喧嘩の変形である。ボクシングなどの格闘技において、変形されていること(つまり生の喧嘩では無いこと)は、全ての参加者に認められている。こういう、全ての参加者に認められている変形をゴッフマンは「転形」と呼んでいる。

 これに対し、一部の参加者しか認めていない変形もある。たとえば、一人の少年が、片思いの少女の前で自分の強い姿を見せたくて、友達と共謀してその少女の前で喧嘩の振りをして、自分が勝って、友達をたたきのめす場面 を見せる。この場合、友達同士では、喧嘩を偽造しているので、本当の喧嘩ではない。喧嘩が変形されていることは、一部の参加者にしか、認知されておらず、認知していない参加者もいる。こういう変形をゴッフマンは(偽造)と呼んでいる。

 私(鶴田)はこの問題に関して、喧嘩かプロレスという図式か疑問である。しかしこの論理はすべて正しいわけではない。なぜなら同じくらいの体格、技量 でないと嘘で喧嘩をしてもすぐに判ってしまうし、それなりの喧嘩の技術が必要である。そう簡単な一瞬でなく、数十分間少女の目を欺けないのである。喧嘩と違いプロレスは鍛えた者同士の闘いであり、身体を鍛えてない者同士が闘っても感動が観客に伝わらない。またリングの中で柔道をするなら柔道家が一番強いし、相撲を取るなら相撲取りが一番強いし、喧嘩をするなら喧嘩のプロが強いし、プロレスをするならプロレス選手が一番強いはずである。競技種目によってルールと練習方法が違うし、その道のプロが一番強いと思うのはあたりまえのことである。

 転形と偽造の違いは、転形は全ての参加者がその変形を認めているのに対して、偽造は一部の参加者しかその変形を認めていない、ところにある。変形されるのは基礎フレームだけでなく、変形されたものがさらに、変形されることもある。例えば、転形されたものは、偽造されることもありうる。ボクシングの八百長はその一例である。

 私(鶴田)はこの問題に関して次の見解を抱いている。プロレスにもあるが、部分的には1954年12月22日力道山と木村政彦の「日本一強い男」を決める試合では、感情的になると真剣勝負になり、八百長が成立しないのである。時々このような例を見ることがある。観客は静まりかえり、異様な雰囲気になり、このような試合の次の興行は観客が入らなくなる。観客も試合をある面 では楽しみに来ているのだと思う。プロレス試合は「技術点と芸術点」の一体化したものである。ここがプロレスの最も難しい問題である。

 本当の試合ではなく、八百長で変形されていることは、一部の参加者(ボクサー、マネージャー)しか知らず、八百長であることを知らない参加者もいるので、偽造された物である。又、偽造された物が転形されることもある。八百長のボクシング映画がそうである。

 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、プロレスにもハルク・ホーガンやミル・マスカラス主演の映画があり、ボクシング映画だけでない。

 変形が変形に重なることもある。その重なり合いに限界は無い。八百長のボクシング映画についていえば、ボクシングの試合は本当の試合でないだけでなく、その八百長も本当の八百長ではない。しかし、映画は本当の映画である(そのリハーサルは映画の転形されたものである。)

 ではプロレスの場合はどうであろうか。プロレスも格闘技として、ボクシングと同じように喧嘩の転形されたものであるように観客に見てもらう。プロレスには、ルールがある。何分間の試合相手の肩を3カウントすれば負けとか、相手の目や急所を殴ってはいけない。そのようなルールは存在する。プロレスの反則の役割については、後で触れる。プロレスの試合を支配するのはこの公認のルールならば、ボクシングと同じように喧嘩の転啓したものといってよいだろう。しかし、プロレス八百長論が主張するように、プロレスには打ち合わせがあり、試合の勝敗や展開は前もって決められているという声もある。

 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、現役のレスラーが思うのは、プロレスはジャズと一緒で自分の完成で相手の感性と競合することで試合が成り立っている。その意味ではプロレスは反格闘技的スポーツであるため、相手の技を受けるので、いろいろ中傷される。

 戦後、プロレスラーになった最初の日本人の1人、柔道家の木村政彦の「証言」では「プロレスでは、プロモーターが勝負を決める。レスラーはそれを無視できない」1954年12月22日に「日本一強い男」を決めるはずであった力道山対木村戦もそうであったと言う。

 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、たしかに部分的には正しいが、自分の実力を相手が認めないとなかなか相互の技を受けようとしない。また人間性の問題もあり、あいつは嫌いだとなると技を受けない(例でいうと、カール・ゴッチなどは観客のファンレスラーへの声援やプロモーターの金儲けに関心が無い)。

 この試合は引き分けに終わり、その後、日本中を回って勝ったり、負けたりして、金儲けをしようという話であった。「プロレスラーの勝負だから、お互いに自分の得意技を出て、観客に試合を楽しんでもらいたい。プロレスの醍醐味を味わって欲しい」のだ。木村氏によると、試合の展開や結果 を決定するこの打ち合わせに、参加者の一部レスラー、プロモーターなどしか知らず、観客は知らない。疑って知ろうと思っても出来ない。だからプロレス試合はゴッフマンの言葉で言えば偽造された物といえる。

 私(鶴田)はこの問題に関して言うと、この話は力道山側からは聞いていないので一方通 行なので不公平である。私が力道山の息子百田氏に聞いた話では木村政彦氏の部分的には作り話もあると言っている。

 また「プロレスは八百長ではないと言う人もいる」偽造されたプロレスに捕らわれた人である。しかしプロレスがショー・ビジネスであることを認めながら、楽しんでいる人もいる。「スポーツ・ドラマ」を見ているように、プロレスは格闘技の偽造されたものでなく、つもり転形した転形ではないかという意見がある。このあたりの問題は難しい。プロレスはフレームをあいまいにする事によって観客を引きつけようとするからである。しかし、プロレスとドラマを比較するとその違いが明らかである。ドラマの場合、演出の効果 、証明、衣装など、転形に関する側面が取り上げられる。プロレスは「力道山王座に、オルテガを体固め」と新聞は報ずる。しかし、プロレスの勝ち負けはドラマの中であり、現実世界に位 置づいていない。プロレスとドラマの違いは、ドラマが上演される前に、台本を見て話の筋を知ることができるが、プロレスの試合は一部の者、レスラーとプロモーターしか知らない。プロレスの台本は隠されているのである。だいたいどちらが勝つということが解っていても、詳しい内容や展開が解らないのである。ドラマとして見るつもりでも、プロレスは偽造された物である。  私(鶴田)はこの問題に関して言うと、部分的にはレスラーや観客もプロレスの楽しみ方を理解しており、八百長という言葉の持つ悪いイメージを最近のファンは持っていない。何が行なわれるか解らない時もある。そういう時はどういうフレームを使用しているのか解らないから、そうなるのである。これは不明確さ(ambiguity)の問題である。そして間違ったフレームを使用する時もある。これはフレームの誤審(errors in framing)と言える。プロレスの試合はゴングで始まり、フォールや時間切れのゴングで終わり、その間の勝負はいっさい時間的、空間的にリング内で行なわれている。しかし、実際には試合はより広いフレームに属するものである。「真剣勝負」であるという偽造を維持するために、打ち合わせや練習は隠されている。

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