第2節 日本のプロレスリングの現状と課題

 この問題に対し、大学出のレスラーはどう悩み、取り組んだのか。これまでは歳をとって自分の所属する団体と対立して独立し、自分のプロレス団体を作り、自分のレスリング観で新弟子を育てていくことが多かったと思う。
 そのときのレスリングの理想とする哲学とか、方法とはどんなものであったか。その時に古代ギリシアのレスリング文化を、現代に再生することは、できないものなのか。そこまではまだ考えていない。経営的に観客がどうやったら入るかそれが第一の問題である。しかしいままでのプロレスは、みんな観客に飽きられてしまっていた。そしてまた、飽きられようとしている。観客に満足してもらえるレスリングとは何か。そこで私はレスリングの原点に立ち戻って、古代ギリシアのレスリングから把えなおしてみたいと思う。残念なことに、他の大学出のレスラー達は、そこまで考えていない。観客も単にレスリングの試合の雰囲気を楽しんだり、仕事、勉強のストレスを発散させたり、気晴らしで熱中しているのだと思っている。年齢層が低くなればなるほどその傾向が強い。だからこそ、プレイの側にも、観客の側にも、質の向上を要求したいのだ。
 力道山が大相撲のシステムを考えてプロレスに応用した。しかし大相撲は会いられていない。プロレスは飽きられてしまう。では、大相撲の哲学、方法論を取り入れられないものだろうか。相撲は地方興行も、本場所も大入りである。非常に相撲に似ているが、一方は飽きられ、一方は繁栄している。相撲の哲学をプロレスに近づけることはできないのだろうか。私はプロの統一協会を作って、その全員を所属レスラーにしないと無理だと思う。例えば、日本相撲協会のように、日本プロレス協会があって、所属レスラーが試合をして、サラリーを貰い、優勝者を決める。このシステムにしないと難しい。プロレスの場合は、プロレス会社同士で利益を争って、日本国中を自由に興行している。解決策はトップ同士の話し合いとテレビを同じにすることだと思う。会社同士で話し合って、日本国中を自由に興行しない。協会が試合カードを作る。しかしこれを実現することは不可能に近い。
 逆にアマレスの世界は、1つの組織でオリンピックを頂点にして統一されている。この世界統一組織を持っているアマレスとプロレスの交流を図ることによって、ゆるやかにプロレスを統合化できないだろうか。一度ソウル五輪の時に、プロレスラー谷津選手がアマレスの試合に出て優勝したが、途中でプロアマ・オープン化で問題になり、取り消され、オリンピックは出られなかった。元オリンピック選手はいるが、プロレスからアマレスのオリンピックに出る選手はいない。
 J・リーグのような例もあり、プロとアマの交流は可能性のある将来の課題だと思う。現在ではプロレスとアマレスは異質で、ルールが違う。アマレスがポイント制になっており、内容のある試合をすることは難しい。これは柔道についてもいえるが、ルールを厳しくしていることが、プレイの内容を単調化している。プロレスは投げられたらそれを受ける。そこに格闘技の美しさが生まれる。今のアマレスは減点主義で格闘技の内容を損ねている。もしプロとアマとオリンピックに向けては互いに、共通 のルールで交流をし、努力すればアマレスの魅力を再生できるのではないかと思う。プロとアマのレスリングの違いは、テニスと卓球ぐらいの違いがある。その差をどのように、埋められるか。
 今のグレコ・ローマンが古代ギリシアのグレコとぜんぜん違う。しかし古代ギリシアの芸術家たちの表現したレスリングの試合の作品は、今日のプロレスの世界に近い。編ませスではあのような表現はほとんどとれない。そうするとアマレスも、古代ギリシアのグレコに戻すことはできないのか。プロレスの方もさらに戻す。そういうことは、大きな改革の方法として有効だと思う。プロレス&パングラテスは可能だと思う。プロレスのルールに似ている。ボクシングがやってきているから、可能性がある。力のある人が、今後そういう提案をしていって、日本のアマレスを強くするためにプロレスが寄与する。現在のプロレスは、あまりにも自分たちの収益を上げることに執着してプロレスの方のシステムがまとまりが悪い。また先を見る目がない。
 現代のプロレスには、邪道なプロレス・デス・マッチ的なものもある。しかし、長期的には観客を芸術的に魅了する団体が生き残っていくし、そうあって欲しいと思う。その意味でも今回の修士論文でアマレスもプロレスも、もう一度古代ギリシア時代の発生の原点に立ち戻って、もう一度基本から捉えなおし改革していったら、どうだろうかという提案をしたい。 第3節 プロレスリングのメディア・バリューをめぐる課題

第3節 プロレスのフレーム分析とトンプソン論文に関する考察

 マスメディアの問題で、プロレスを扱っているテレビ、新聞、広告代理店といった人々は、スポーツとして見ていない。岡村正史著の「知的プロレス論のすすめ」エスエル出版会を参考にして、私なりにこと問題を考えてみたい。力道山時代はマス・メディアやテレビで常に勝つことを義務付けられ、日本人が敗戦で精神的な生きがいを失い、また外人コンプレックスを払うために、日本国民に明日への勇気と希望を与えるプロレスは負けることが許されなかった。しかしボクシング、相撲は違っていた。このことがプロレスに常に栄光と悲惨が共存した原因の一つであると思う。現在プロレスを定期的に報道しているのは、プロレス・ジャーナリズムと一部のスポーツ誌にすぎない。
 東京スポーツは「格闘技」として扱い、「ゴング」、「プロレス」も同じ扱いである。一方、一般 紙や大手のスポーツ紙はプロレスを報道しない。社会面で「プロレス」をスポーツとして見てないので、社会面 的に扱う時は「元横綱の輪島のデビュー」、「新生ユニバーサル・レスリング・フェデレイション(UWF)やK-1(総合格闘技)などが若者の間で人気爆発の社会現象」ぐらいである。一般 紙は「これはプロレス界の出来事であるが、プロレス・ファン以外の人も知っていてもよいだろう」と判断したニュースのみがとりあげられる。要するに一般 紙はプロレスのゴールデン・タイムからの移行で、さらにニュース・バリューがなくなったと受け止めている。
 一般紙は「プロレスは純粋な格闘技の面とショー・スポーツの面があり、そこに明確な線引きが出来ない限り、学問的にスポーツとはいえない」と見ているのである。私はプロレスに関しては「スポーツ」でも「芸能」でもない独自のジャンルがあってよいと思う。
 1つの方法はプロレスを「総合格闘技化(K-1)」にしていかなければ、マスコミの魅力を取り戻すことはできないという考え方である。
 もう1つの方法はプロレスをエンターティメント・スポーツとして捉え、新体操やシンクロ・スイミングのように芸術点があるように、試合の流れや技などプロセスの美しさを楽しむという考え方もある。
 これは大相撲についても言えるのではないだろうか。プロレスのように鍛え抜いた肉体と肉体がぶつかり合う試合では、ときに殺気立ったムードが漂い、ファンはその緊張感を求めて会場に来ることもある。しかし全盛期をすぎたレスラーがリングに登場すると、会場がリラックスした雰囲気に変わる。これもプロレスであるが、もっと威厳のある日本文化と伝統として育てなければいけない。例えば相撲の土俵入りや柔道、剣道の「型」などである。またプロレスには矛盾に満ちた人間くさいルールが支配している。これもプログラムのサービスのあり方で差別 化すべきだと思う。はりあえばどういう批判があるのか。
1. 反則がやりたい放題で、ルールがいい加減だ。
2. 試合数が多すぎる。130〜150試合、本気で試合できない。
3. 馬場、猪木、鶴田、天龍などエース格はめったに負けない。
4. 馬場の16文キック、猪木の延髄蹴り、など技がきれいに決まりすぎる。
5. 血は本当に流しているんだろうか。どうも違うみたいだ。
6. 覆面レスラーがいるなんておかしい。(覆面力士、覆面ボクサーはいない)
7. テレビの放送枠にきれいに試合が収まりすぎる。 以上はプロレスをエンターティメント・スポーツと捉まる人々の考え方である。しかし重要なことは次の2点である。
1. プロレスは殺し合いではない。
2. プロレスは面白くなければならない。
プロレスにはマイケル・ポラニーのいう「暗黙の知」の側面があると思う。スポーツ運動学でいう「なぞり」に似ている。人間くさいルール、秩序、格、人気の優先、ロープワーク、コーナーワークの存在、相手の技を受けること、技の格、試合の前に打ち合わせなくともレスラーの互いに暗黙の了解をし合っている。いわば、これはレスラーの常識である。プロレスにとってルールがなければ、街の喧嘩と同じで、殺し合いになりかねない。しかしルールにがんじがらめでは面 白くない。そこで、レフリーの眼に判断をゆだねるルールにしている。私のプロレスの経験から現代のプロレスには、勝敗は強弱を意味していないといってよいと思う。そもそもそれがある時間の中で、客観的に判断できないからである。プロレスは観客の眼に試合の魅力の最終判断をゆだねているからである。プロレスでは相手の技を受けなければならない「暗黙の知」があり、そこからロープ・ワークを始めとするいろいろな演出が出現してきたのだと思う。相手の技を受ける(反格闘技的)行為も大切な要素である。
 一般のスポーツ・格闘技においては、「相手の得意技を封じて、自分の得意技で決めた場合」が最高である。プロレスでは、「相手の得意技を受けて、自分の得意技で決めた場合」が最高である。「技のダメージ(得意技の型をもっている)プラス神通 力」なのである。「力道山=空手チョップ」「デストロイヤー=四の字固め」「スタン・ハンセン=ラリアート」などで、あの技が出たらおしまいだとファンが想像する。つまり「技のカーニバル時代〜新格闘技時代〜(K-1など)1986年」と、捉えてよいのではないか。ところでプロレスの技の意味そのものを変更しかねない状況にある。新しいプロレス新生ユニバーサル・レスリング・フェデレイション(UWF)や総合格闘技K-1が生まれたからである。それはプロレスを「プロフェッショナル・レスリング」に戻そうというものである。プロレスを「相手をギブ・アップかKOさせるかの勝負」の格闘技にしようというものである。それはプロレスから格闘技へ、そしてロープ・ワーク等であって「相手の技を受ける反格闘技的行為」を拒否しようというものである。「防御する」攻撃とは相手の防御のスキを突いて本当に相手にダメージを与えるものでなければならない。そうなると今までのプロレスの「決め技」の大半がナンセンスになる。
1. 関節技の決め合いが多く、グランド・レスリングの時間が多い。
2. プロレス的なキックではなく、キック・ボクシング的なキックを使う。
3. 全体的にスピードがあり、展開がめまぐるしい。
4. ロープに振られそうになると、拒否の意志表示をすることがある。
5. 相手の技から受けたダメージをオーバーに表現しない。
6. 試合中にあまり声を出さない。
7. 流血があまりない。
広義においては今日のプロレスはエンターティメント・スポーツであることを認めざるをえない。いや本来プロスポーツはすべてはエンターティメント・スポーツの面 をもっている(プロ野球、サッカー、大相撲、プロ・テニス、プロ・ゴルフ)。この点では野球、大相撲、ボクシング、プロレス、J・リーグもすべて同じジャンルに入る。アメリカ人はこのよう論理をセンスとして持っている。
 日本では、残念ながらスポーツとエンターティメント・スポーツを区別している。「プロ・スポーツは、すべてエンターティメント・スポーツである」ということは論理では納得できても、心情では認めたがらない。スポーツは誉め言語、エンターティメント・スポーツは蔑みの言語である。プロ・スポーツは、エンターティメント・スポーツということで同列においている。
 先にみたようにプロレスの新しい流れとして、新生ユニバーサル・レスリング・フェデレイション(UWF)や総合格闘技K-1のようにプロレスを改革しようという団体が現われている。年150〜130試合を月1回程度に大都市で格闘技的な色の濃いハードなプロレスをする方向を打ち出している。これは画期的な出来事である。しかしプロレスはプロレスという名前である限り、どこまで行っても格闘技に抱くコンプレックスは永遠である。その意味で「従来のプロレス」は今後も存続していくものと思う。プロレスが総合格闘技的要素をどんどん強め、競技としてのレベルが高くなっていくにつれて、従来のプロレスの性格が弱くなっていくこともあろう。新生ユニバーサル・レスリング・フェデレイションUWFや総合格闘技K-1が主流になるか、今後のプロレス界を見極める試金石になると思う。
 マスコミに偏見があったとしても、武道館を何回も満員にしたりするのは、プロレス・マニアで集まったのか。一般 的な人気があってのことなのか。私は力道山時代は社会的現象としての一般化の人気であったと思う。
しかし現代は日本がすっかり成熟した社会になり、柔道、剣道、プロレスなど格闘技からスーパースターが出にくくなり、逆に野球、サッカー、バスケットなどから出やすくなってきているのではないだろうか。いまのプロレスを支えているファンは残念ながら一般 化はしていないと思う。
 武道館が満杯になり自分に視線が集まってきた時、すごい人気ではないだろうかと誰しも思う。あれだけ満杯になればそう思うのが自然である。私はプロレス・ファンを満杯にした時の、感覚は自分はすごい仕事をしているのだと思い、また自分自身に大きな充実感があった。
 経営システムとしてみると地方興行は大きな本場所(大試合)に向けてのトレーニングである。しかし大試合に対するマス・メディアの関わり方は、非常に消極的である。マスコミの偏見を取り除き、プロレスの世界を改善し、芸術的スポーツの本質に動機づけていく必要がある。しかしその可能性は、あるのだろうか。プロレスはエンターティメント・スポーツ(格闘技+芸術的スポーツ)でしかない。テレビ中継でも何でも観客を興奮させようとして、アナウンサーと解説者が故意に技の凄さを表現し観客を興奮させる。冷静に解説した人は迫力がないとか、もっと興奮させるようにテレビからクレームがくる。しかしアメリカはもっとショーアップされている。格闘技の勝負、芸術的スポーツという雰囲気ではなく、ドラマの1つという感覚で捉えている。
 岡村正史著の「知的プロレス論のすすめ」エスエル出版会1989

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