第3章 わが国のプロレスリングの現状と課題

第1節 日本のプロレスリング小史

私は日本のプロレスリングの歴史を次の4期に分けてとらえてみたい。
1.第1期黄金時代(昭和26年〜38年)夜明けから力道山の全盛期まで。
2.第2期黄金時代(昭和39年〜46年)力道山死後の日本プロレスの再建路線。
3.戦国時代(昭和47年〜56年)日本プロレスが消滅し、国際、新日本、全日本の3団体の戦国時代。
4.新しい世代の時代(昭和57年以降)。 プロレス評論家の菊地孝著「昭和のプロレス」を参考にして、私の経験を重ねてとらえてみたい。昭和29年2月19日、シャープ兄弟が初来日し、テレビ・マスメディアによる大プロレス・ブームがおきた。プロレスの父は力道山であった。
 力道山は本格的なプロレス修行のため、昭和27年2月に渡米、昭和28年3月に帰国したが、この約1年間のアメリカ・サーキット中に「日本にマット界を形成し、その帝王たらん」と志して当時、全米1のNWAから日本人としてただ一人のプロモーター・ライセンスを取得した。帰国後、日本プロレス興行、同協会を設立、テレビ放映の獲得や興行基盤を確立した。力道山は卓越したビジネス感覚で、自らがエースとして活躍する舞台を作り上げた。そして準備万端、整えた上で世界タッグ王者シャープ兄弟組を招き、記念すべき第1戦は、昭和28年2月本放送を開始していたNHKテレビ、同8月開始の日本テレビの電波に乗って全国中継され、力道山は一躍国民的英雄となった。当時の日本人はまだ、敗戦のショックから完全に立ち直ってはおらず、外人コンプレックスが根強く残っていた。それを吹っ飛ばしてくれたのが、巨漢外人レスラーをなぎ倒す力道山の空手チョップであった。一家に1台のテレビ受像機はまだ夢物語で、日本テレビが関東地区に220台設置した街頭テレビの前は、黒山の人が集まり、プロレス・ブームは社会現象となったのである。その頂点に立ったのが力道山であった。テレビは最高視聴率85%前後をあげた。そして念願通 りその帝王の座に就いた。昭和33年ごろに一時人気が衰退したが、昭和34年の第1回ワールド・リーグ戦で盛り返した。すでに社会現象ではなくなっていたプロレスを力道山一流のアイディアで、メジャー・スポーツの座に就けたのである。ワールド・リーグ戦の成功で再び波に乗った力道山は、帝王として活躍し、昭和36年7月、渋谷にプロレスの殿堂、リキ・スポーツパレスを開館、5つの会社のオーナーとして事業手腕を発揮した。しかし、昭和38年12月に凶刃に倒れ、この世を去ってしまった。この時代「プロレス=力道山」であった。力道山の死によって、「日本のプロレスは終わった。」と見る人も多かったが、日本プロレスは、日本テレビ網は番組スポンサーの三菱電気の全面 協力を得て、「プロレスの灯を消すな」を合言葉に、豊登、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の4幹部合議制による「新路線」を発足させた。昭和39年の新路線の成功を決める時に、ジャイアント・馬場が再渡米から帰国し参加して人気を盛り上げ、新路線を起動に乗せた。
 「豊登、馬場(TB)砲」と呼ばれ、豊登、馬場のコンビは日プロの看板になった。しかし豊登は力道山時代から馬場時代への2年間のショート・リリーフ役を果 たして、日プロを去り、昭和41年3月に豊登、猪木が東京プロレスを設立した。同9月に吉原巧が国際プロレスを設立した。力道山死後3年足らずで戦国時代に入ったのである。昭和42年2月に、東京プロレスが倒産し、猪木は日プロに復帰した。昭和43年1月にTBSテレビの放映が開始され、国際プロとの2団体対立時代に入った。その後、馬場、猪木の「馬場・猪木コンビ」が黄金時代を迎え、国際プロに大きく水をあけ、昭和44年7月からはテレビ朝日(NET)の放送も開始され、1団体2局放映となり、視聴率も20%前後をとり、まだまだ、プロレスはメジャーな番組であった。馬場、猪木全盛時代にピリオドを打ったのが、昭和46年12月の猪木追放事件だった。」会社乗っ取りを計画し、主犯で日プロを追われ、昭和47年3月に新日本プロレスを旗揚げした。日プロは、日本テレビとの契約を無視してばばをテレビ朝日に出場させ、日本テレビと馬場の両方を失うことになった。昭和47年5月日本テレビは、力道山時代から18年間続いた日プロの放映を打ち切り、馬場も同年7月に辞表を提出、同10月には日本テレビの放映を得て全日本プロレスを旗揚げした。
 この時私は大学4年生で全日本プロレスに就職が内定し、全日本プロレス新人レスラーの第1号になったのである。馬場、猪木を失い、一気に人気凋落、昭和48年4月にはテレビ朝日も新日プロに鞍替えして、日プロは崩壊した。半年間の4団体時代を終え3団体時代に入ったが、国際プロは、後進の2団体に人気の面 で追いつけなかった。ファンの興味は猪木の馬場挑発に集まり、馬場、猪木時代から馬場、猪木対立時代に入った。日プロ時代の馬場、猪木全盛時代は4年前後で、オーナー・エースとなってからの抗争時代が長く続いた。最初は全日本プロが優位 に立っていたが、昭和51年6月の猪木対モハメット・アリ戦を機に、新日プロが異種格闘技路線を推進し、昭和56年5月、強気になった新日プロはアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、全日プロとの間に前面 対立が起きた。この対立で昭和56年8月に国際プロが崩壊した。
 吉原社長は「うちには馬場や猪木のようなスーパースターがいなかったからだ」と語った。新日プロの優位 は、昭和58年8月のタイガーマスク突如引退、社内クーデターが原因で崩れた。昭和59年4月ユニバーサル・レスリング・フェデレイション(UWF)が前田日明、ラッシャー・木村で旗揚げした。昭和59年9月長州力の維新軍団が脱退、一気に人気が凋落した。長州たちはジャパン・プロレスを結成、昭和60年1月から全日本プロに挑戦し全日本プロの人気が沸騰して新日プロとの立場が再逆転した。ユニバーサル・レスリング・フェデレイション(UWF)は昭和60年10月に崩壊し、昭和61年1月から前田以下の選手は新日プロに再び戻り、猪木に一騎打ちを求めた。「全日本プロを乗っ取る」と宣言して挑戦した維新軍団も、馬場はエースの座を鶴田、天龍に禅譲していたが、「馬場一家」を崩す事が出来ず、昭和62年3月に全日本プロを脱退し、新日プロに戻り、6月に藤波、前田などと猪木に対決を求め、新旧世代抗争に突入した。  長州の行動により、日本マット界が馬場、猪木が動かしていることの証明になった。長州が猪木を倒したのは、昭和が終わり平成元年に入ってからである。長州の抜けた全日プロは、天龍同盟が決起しマットを活性化させた。新日プロは昭和62年11月19日後楽園ホールで「長州無法襲撃事件」で、前田を解雇したことが大きな誤算となった。
 昭和63年5月に新生ユニバーサル・レスリング・フェデレイション(UWF)を旗揚げし、シビアな格闘技としてプロレスと違う新しい興行システムで大ブームを起こした。これは格闘技(勝ち負けの世界)とプロレス(勝ち負けの世界+観客を魅了する内容のある試合)に第一線を引いた団体であると思う。昭和マット史は最後まで力道山の影響を受けている。馬場と猪木が力道山に育てられた方法で、自分の弟子を育成したからだと思う。大抜擢を受けて初渡米武者修行に出され、帰国後メイン・イベンターに起用された馬場は、鶴田、天龍も入団後すぐにテキサス州アマリロの「ファンク一家」に預け、エリート・コースを歩かせた。
 鶴田と天龍は対立しているが、大きな意味では「馬場一家」である。これは馬場の包容力と、その指導法ひいては馬場の人間性だと私は思う。猪木は馬場と違い、力道山が死ぬ まで手元に引き留められ、雑草のように育てられた。後継者と言われている藤波、長州に対しても2年余にわたって海外で一匹狼の苦しみを味わい、這い上がってくるのを待った。若い頃は「革命児」とも「異端児」とも呼ばれた猪木は、自らの反骨精神を弟子たちに吹き込んだ。しかし、いくらエリート・コースを歩いても、自分が努力してファンとマスコミに認められなければスターにはなれない。天龍は1回目の渡米で自立できず長くアメリカ・マット界に留まざるをえなかった。  私が思うに、天龍は多分に自己PRのために反骨精神をファンに認識させたと思う。長州、前田らの取った行動は、日プロを脱退して東プロを設立し、崩壊後に復帰したが、再び日プロを出て独立した猪木によく似ている。もっともこのような対立、再統合、分裂はあったものの昭和マット史の主流を征したのは、力道山、馬場、猪木の3人のスーパースターであったといってよいだろう。力道山の遺言を継いだ馬場、猪木がそれぞれの理想のプロレスを目指して自分たちの団体を作ってきたが、力道山なくしては、今日の日本のプロレスは存在しなかったと思う。力道山の突然の死は日本のプロレスを根底から揺さぶったが、それによって、日本のプロレスはいろいろな方向に発展し、多様化したともいえる。
 昭和39年東京オリンピックによるテレビのカラー化にも互いに影響する。力道山時代はまだモノクロの時代であったからである。またプロ野球や大相撲もテレビのカラー化で、人気スポーツになったが、これらスポーツはすでに日本文化として定着した上での大衆化であった。しかし、プロレスが力道山によって、人気スポーツになったものの、一般 マスメディアの取り扱いまでには至らなかった。なぜプロレスはテレビのゴールデン・タイムの時間帯に放送されながらも、朝日、読売などの一般 紙は取り上げることをしないのか。プロレスとは何かという問いかけからしなければならない。
 昭和58年11月にプロレスはゴールデン・タイムから外れてしまう。30年間にわたってプロレスがテレビのゴールデン・タイムを確保したにもかかわらず一般 の人の目に触れにくい時間帯に移行させられてしまったのである。テレビ・サイドでは視聴率が取れなくなったから、また教育委員会(PTA)が教育上好ましくないと批判するから、テレビのスポンサーが取りにくいからだという。
 「プロレスは純粋な格闘技の面とエンターテイメント・スポーツの面があり、そこに明確な線引きが出来ない限り、スポーツとはいえない」と言った批判をあげるが、私はそれではそれまでの30年間はなぜゴールデン・タイムに位 置することができたのかの説明にはならないと思う。プロレス側は「終始一貫エンターテイメント・スポーツではない、スポーツである」と言い続けているが、それだけで説得力が十分あるとは思っていない。一体本当の理由は何なのか。プロレスの現場の栄光が、社会になぜ素直に伝わらないのか。大学院に入った私の関心はここにある。  

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