第3節  中・高時代 ―スポーツの魅力に取り憑かれて―

 私の場合、叔父の鶴田勝が甲斐錦という、幕内までいった相撲取りだった。自分も中学2年の夏休みに「朝日山部屋」に東京見物と言われて体験入門した。また高校の時1週間練習して山梨県で3位 になった。私には格闘技の血が流れていたかもしれない。オリンピックと関わった「鶴田友美」の心の歴史を振り返ってみたい。オリンピックがいつごろから憧れの対象になったのか。私自身がそういう世界に参加できたら素晴らしいと思ったのは、東洋で初めて開かれた1964年の東京オリンピックである。中学2年生の時の10月10日の開会式に感動し、自分も赤いブレザー・ジャケットを着て出場してみたいと思ったのである。オリンピックは相撲の体験入門で心が癒えなかった私にとってすごく新鮮に思えた。また市川崑監督の「東京オリンピック」を見て単なる記録映画としてではなく、人間性の内面 の捉え方と美の映像に感動した。
 1934年イタリア・ワールドカップは全世界でラジオ中継され、ムッソリーニのPRに大いに役立ったといわれている。1934年のベルリン・オリンピックは「民族の祭典」の映像としてナチス・ドイツのPRに使われ国威高揚に多大な影響を与えた。
 しかし、1964年の市川崑監督の「東京オリンピック」は新しい時代のオリンピックのあり方に大きな影響を与えた、それは単なる記録映画ではなく、「競技する選手の内面 を描いた人間ドラマ」で、これまでのオリンピックのあり方に大きな影響を与えた。監督は、とくに100mは大変重要視した。一瞬の勝負である。だからこれには大変、力を入れた。走ることはカメラが的確に捉えてくれる。走る前と、ゴールに入った後の選手のさまざまな内面 の要素を重要視して捉え、スタートを大変重要視した。スタート前の選手は、極度の緊張感のあまりか、むしろ悲しげに見える。しかしスタンドの観客は選手のこういう表情にどこまで、気付いているだろうか。スタートの時間までの恐ろしいまでの長さ、聞こえるのは、旗竿が風に鳴る音だけだ。緊張感が映画の観客に伝わってくる表現であった。スポーツは人間の、何か象徴(本質的価値、魂の部分)というか、凝縮した象徴(本質的価値、魂の部分)を感じさせるものであった。開会式の堂々とした規律正しい入場行進、また閉会式の「平和と友情」を象徴する画面 は、全世界に感動を与えた。東京オリンピック以後、スポーツは魅力ある文化交流になり、同時に映画など放送メディアの新しいテーマになった。これはスポーツが世界のメディアになったということでもあった。近代オリンピックは、1896年のアテネ大会に始まり100年目のアトランタ大会を終えたところであるが、一番大切なことは世界中の人々にスポーツの素晴らしさ(人間ドラマ)のメッセージを送ることだと思う。
 ところで私がオリンピックに憧れを持った時に、身近な選手も存在していた。例えばバレーの山梨県出身の河西選手、マラソンの円谷選手、重量 挙げの三宅選手、レスリングの渡辺選手、柔道の神永選手,などである。そこで各選手に対しての自分の抱いていた夢を語ってみたい。
 最初は自衛隊体育学校のマラソンの円谷選手である。私は自分の生活環境が小学校、中学校と山の上で生活をし、毎日、田圃の中を走って通 学したので、走ることに興味を持っていた。短距離よりも長距離が好きだった。円谷選手は次のメキシコ五輪の前に自殺してしまったが、当時は自分のためよりも国のためにという価値観が大きい時代であった。
 「自衛隊体育学校上司宅のもの。校長先生済みません。高長課長何もなし得ませんでした。宮下教官御厄介お掛け通 しで済みません。企画室長お約束守れず相済みません。メキシコ・オリンピックの御成功を祈り上げます。」1968年、1月。という遺書に現れている。
 「父上様、母上様、とろろ美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ブドウ酒、リンゴ酒美味しうございました。厳兄姉上様、しそめし、南蛮づけ美味しうございました。嘉造兄姉上様、ブドウ酒、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しうございました。正男兄姉上様お気煩わせて大変申し訳ありませんでした。幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正爾君、立派な人になってください。」
 「父上様、母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、ご苦労、ご心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」  という遺書にも現れている。私も自衛隊にレスリングの練習に行ってそのことの意味を、ますます身近に感じた。
 川端康成が円谷の文章を絶賛していた。私も今回の資料として検討してみる価値があるのではないかと思い、原文のコピーを円谷家から戴き、資料に添えることにした。円谷選手にとってのオリンピックとは何であったのか。同じオリンピック選手として私は次のように分析した。
 円谷選手は初めは中距離、長距離のトラック選手で、オリンピックの時もあまり期待されずにマラソンに廻った。東京オリンピックは銅メダルに終わったが、4年後のメキシコ五輪には、金メダルの有力候補になり、国民の大きな期待がかかった。しかし怪我と、故障で肉体的にも精神的にも限界に直面 し、とてもベスト記録を出せる状態ではなかった。本人は責任感が強く、自衛隊という環境の中で逃げ場がなかった。自分のために走る(自分の価値)でなく、国のために走る、または自衛隊のために走る(国家の価値)ということであった。このことが悲劇を生んだ。
 自衛隊体育学校といっても、やはり軍隊というイメージ強い。全国の自衛隊の部隊から競技成績の優秀な者が集められる。競技成績の結果 を出さないと、上層部から評価されないし、自分の地位も上昇しない。 何よりも結果 が重視される。古代ギリシアのアテネ型(自分自身を表現するとか、芸術に関連づけてスポーツをプレイする)の視点が欠けており、文字通 りスパルタ型(スパルタ教育・勝利至上主義)に近いことである。
 河西選手は日紡貝塚バレー部の主将で、大松監督の下で青春時代をバレー一筋に生き、結婚よりも金メダルに賭けていた。東京オリンピックが終わってから自衛隊の男性と結婚した。その後、競技スポーツとしてでなく、楽しみとしてママさんバレーを続けている。
 神永選手にとってのオリンピックとは何であったか。東京オリンピックで初めて正式種目になった柔道の無差別 級で、日本中の期待を一身に背負っていた。そのプレッシャーは大きく、決勝戦でヘーシンクに敗れた。しかしこのことで、「日本の柔道が破れ、世界の柔道になった」のだと思う。日本中の格闘家はこの敗戦のショックを強く受けた。しかし、その時に日本人は「心、技、体」の「体」で負けたが、「心」=精神、「技」では負けていないと思ったのではないか。へーシンクは温厚な紳士で人間性が豊かだったので、試合が終わりオランダのコーチが喜んで神聖な畳に上がろうとした時、制止して神永選手の気持ちを察していた。私はその様子を見てヘーシンク選手も日本人の「心」を理解できる人間だと思った。神永選手は温厚な紳士で人間性が豊かな新日鐵の選手だったが癌でなくなりかわいそうな一生だった。柔道の全日本選手権大会で、歴代の王者が畳の上に上がるということがあったが、神永選手だけが下を向いていた。
 ヘーシンク選手に対する私の思いでは、身体が大きく得意技は支えつり込み足で、体力勝負で試合をする選手であった。バーベルで作った筋力ではなく、柔道競技の中で自然についた筋力と、子供時代からの生活環境で自然を利用してつけた筋力でまさに「生活筋肉」であった。例えば丸太を担いで歩いたりして、補助としてバーベルで鍛えたのだと思う。そのため筋肉が柔らかく、柔軟であり持久力があった。見た目はボディビルダーのように強そうでないが、実際は反対であった。昭和48年10月プロレスの世界に入ってきて、私と試合をしたことがある。もちろん柔道着を着ていると強いが、裸だと私に分があった。なぜ彼と闘ったのか、私がなぜ戦おうと思ったのか。種目の違う選手と闘うにあたっての試合前の自分と闘った後の自分と、そして戦いを通 じて捉えたヘーシンクとの試合を振り返ってみたい。
 ヘーシンクとの試合は昭和48年日本テレビが視聴率アップのために企画したものである。私が闘おうと思ったのは、外人レスラーと対戦するというよりも、内容のある試合が出来ると思ったからである。柔道ジャケット・マッチ以外は観客を魅了する試合が出来なかったので、私が闘おうと思ったのである。私は試合前ヘーシンクの試合内容を見ているので、どんな技を組み立て、試合を決めようとするか分かっていた。それで試合は比較的楽であった。しかし試合後はやっぱり内容のある試合は出来ないと思った。ヘーシンクは長く柔道の世界にいたため「柔道のすり足」や「相手の技を受け入れる」という暗黙のルールが理解できなかった。プレイのプロセスの内容が、勝ち負けの結果 よりも大切であるということを最後まで分からなかった。ヘーシンクはプロレスのことを「アート・オブ・レスリング」と不思議そうに呼び、プロレスラーのヘーシンクは大成出来なかった。現在はオランダの親善大使として、また国際柔道連盟の要職にある。
 さらにオリンピックへの自分史で思い出深い選手は岡野功選手である。彼は東京オリンピック柔道の中量 級で中大卒で金メダルを獲得した。しかし私が中大に進学するとは思っていなかったので、神永選手と同じように当時の日本の柔道は勝って当然と考えていた。
 重量挙げの三宅選手は法政大学から自衛隊体育学校に来て、その時点で世界記録を持っていた。課題はいかに自己ベストの記録を挙げるか、またそのために直面 するプレッシャーに勝つかということであった。しかし格闘技と違い、対人競技でないので、相手の得意技の研究や相手の心理を読む柔道やレスリングとまた違うプレッシャーであったと思う。三宅選手は日本人の慎重でも種目選択と努力によって世界一になれる夢と希望を与えてくれたことである。現在は自衛隊体育学校の校長をされている。
 私が山梨県の名門の日川高校を受験することになった動機は、この高校の目的が、文武両道にあり卒業生に元県知事の田辺国男氏や旺文社社長の赤尾好夫氏、作家の林真理子、冒険ライダーの風間仁志、貴乃花、若乃花を育てた明大付属中野中学相撲部監督の武井義男などの先輩、同級生、後輩がいる。私は大学に行きたかったので日川高校が自分に合っていると思った。スポーツでも山梨県(バスケット、サッカー、柔道)、全国(ラグビー)に通 用する高校だった。私は高校時代、野球部(6ヶ月)からバスケット部に入り、オリンピックの世界から気持ちが離れていたように思う。高校では最初野球の選手になりたいと思った。それは高校入学の年に、甲府商業高校から堀内投手が巨人に入団し、18連勝し山梨の田舎からでも全国に通 用するんだと思ったからである。しかし中学時代からの選手がほとんど出る機会がなかったことと、私は近眼になって野球を断念せざるをえなかったのである。そこで長身を利用したバスケット部に入り、先輩の東京教育大、早稲田大、日本体育大のコーチを受け、プレイ能力を身につけることができた。3年間山梨県では負けたことがなく、3年連続高校総合体育大会に出て、3年の時の国体では旗手を務めることが出来た。全国大会では山梨県のレベルが低いので良い成績を出すことが出来なかった。関東大会では強豪チームとやり、勝つことができなかった(中大付属高校、明大付属高校、京北高校、武蔵高校など)。
 次に私の高校の時のスポーツ種目との関わりを語ってみたい。まず高校総合体育大会があり、バスケット部から借り出されて相撲をやり、山梨県で一週間ぐらい練習して3位 になった。体育の時間はラグビーを盛んにやり、ラグビーをやったことが後にレスリングのタックルに非常に役立った。自分もラグビー部に入れと先生から何度も言われたが、私は短距離は速くなかったのでロック選手でスクラムを組まされ、自分の存在感を出せなかった。早稲田大からイギリスのオックス・フォード大に留学した藤原選手(丸紅勤務)はボールを持って走る選手でヒーローであった。同級生でサッカーのジェフの清雲監督もラグビーをやっていた。柔道の選手が相撲に借り出されたりもした。多種目競技でいろいろな筋肉を鍛えた方が後で大きく選手を成長させると思う。ロック選手でプロレスラーになった選手では全日本ラグビー代表のグレート草津、原選手などがいる。あまり器用でなく持久力はあるが、レスリング技術がないため、いずれも大成していない。私の場合はアマレス&プロレスにラグビー技術が非常に生きていた。タックルの入り方、人間対人間の心理の読み方など非常に生きている。または闘争心も磨かれたと思う。
 またバスケットでは身体のバランス、速い身のこなし、持久力、ジャンプ力、試合の構成力が磨かれ、アマレス&プロレスに大いに役立った。アマレスの重量 級は柔道、相撲からきた選手が多かったので、力はあったが、敏捷性がなかった。相撲は自分の叔父が元幕内の力士「甲斐錦」で、もともと私に相撲の血筋もあった。私は力技で技術力はなかったが、後になってレスリングに役に立った。バーベルでなく自然を使った筋肉つまり「生活筋肉」だったので、地力があって一瞬のパワーがついた。しかし体力をジムでつけた霧島関の場合、彼の努力で作り上げた人工筋肉で補充して大関までになったのは、すごいことであると思う。
 霧島関は、身体が細く小さかったので、バーベルで筋肉をつけ、怪我の予防、回復を速くする必要があったのだと思う。また奥さんが栄養士なので、カロリー計算などして身体を作ったと聞いている。しかし私自身の経験から考えるとバーベルはあくまで補助運動であると思う。それで相撲の稽古でつけた筋肉を主力にしなければならないのではないかと思う。なぜかと言うと、柔らかい、柔軟な動きにも対応できる筋肉はジムでは作れないのである。それはバーベルを相手にするのでなく、人間を相手に勝負をつける競技であるからである。もちろん「心、技、体」の一致は重要である。
 レスリングと相撲は勝負の内容がプレイする選手にとっても、観戦者にとっても重要である。勝負の結果 だけでなく、内容のある試合であるかどうかが重要である。したがってスポーツも身体表現の芸術なのである。例をあげると私はチャスラフスカ選手の時も感じていたが、美しい技というのは呼吸とか相手との自然の流れで出来るもので、人工的に作った技の仕掛けでなく、その時その時の最適な自然の流れで作るものだと思うからである。自然に作った筋肉はすぐには落ちないし、人工的なバーベルの筋肉は強そうに見えるがすぐ固くなり柔軟性がなく、変化の多い動きについていけない。また休んでいると1〜2週間で落ちてしまう。霧島関の場合でも相撲で作った筋肉の方が彼を支えていたので、人工的に作った筋肉は印象では強さを与えているが、それは霧島自身の強さには直接は結び付いておらず、体重とパワー、精神的自信をつけるのには良かったのではないかと思う。

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